承継
この追悼サイトは、 ユージン・ スミス(水俣病を撮り続けたアメリカの写真家)さまのために作成されました。

享年59歳 、誕生日 1918年12月30日、命日 1978年10月15日
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ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカ写真家1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。

ファーストネームは略されミドルネームのみで呼ばれることが多い。

経歴[編集]カンザス州ウィチタ生まれ[2]。母方の祖母がアメリカインディアンポタワトミ族の血筋もひく。父親のウィリアム・H・スミスは小麦商を営んでいた[3]

長ずるにつれ、ユージンは空を飛ぶこと、飛行機に魅了されていった。13歳のとき、飛行機の写真を買うためのお金を母親に求めたところ、母親は代わりに自分の持っているカメラを与え、地元の飛行場に行って自分で撮って来てごらんと促した。写真一筋となったユージンはカセドラル高校のスポーツイベントを撮る。この写真が地元『ウィチタ・プレス』の編集者のヴィジル・ケイの目にとまり、15歳のとき同誌に写真が採用された[3]1934年、異常気象により中西部の農業は壊滅的な打撃を受けるが、干上がったアーカンザス川を撮った写真が『ニューヨーク・タイムズ』7月25日号に掲載された。

1936年4月、大恐慌で破産した父親が散弾銃自殺[3][4]。同年、ウィチタ・ノース高校を卒業。母親は息子のため、カソリック教会のつてを辿り、写真に関する奨学金を獲得。ユージンはノートルダム大学に入学するが、18歳のときに退学し[1]、ニューヨークに向かった。1937年9月、『ニューズウィーク』の仕事を始めた[4]

戦争写真家として[編集]1943年9月、「Ziff Davis」の従軍記者となる。サイパン沖縄硫黄島などへ派遣され、『ライフ』などに写真を提供した[5]

1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦歩兵と同行中に日本軍迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷した。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けた。この時の口腔内のけがのために以後咀嚼が難しくなり、固形物の摂取が困難になった[6]。そのため、以後は1日当たり牛乳8から10本を飲んで栄養源とする生活に変わった[6]。固形物をとるのは夕食の時くらいしかなかった[6]

以後約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に悩まされることになった[4]。その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している[7]

療養中の1946年、「The Walk to Paradise Garden」(楽園への道) を発表する[8]。これは、当時の妻だったカーメンや2人の子供と暮らしていたころに撮られた写真で、林の中を歩く2人の子供の後姿を逆光で撮影している。今日では、写真集『MINAMATA』に収録されている「入浴する智子と母」と共にスミスの代表作として知られているが、発表当時は特に注目を集めるものではなかった[8]。広く知られるようになったのは、1955年ニューヨーク近代美術館で開催された「ザ・ファミリー・オブ・マン」展のエンディング写真として使われて以降のことである

1970年8月、51歳のときにニューヨークマンハッタンにあるロフトでアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会う。富士フイルムCMでのユージンへのインタビューで、アイリーンが通訳を務めた[4]。当時20歳のアイリーンは、母親は日本人で父親はアメリカ人[4][16]。東京育ちで11歳のとき渡米し[16]、当時はカリフォルニアスタンフォード大学の学生で[4]、夏休みの休暇中の割のよいアルバイトとして富士フィルムの通訳兼コーディネーターを引き受けただけで、当時はユージン・スミスの名前も知らなかった[17]。出会ってわずか1週間後に、ユージンはアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼む。アイリーンは承諾しそのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた[4]

1970年10月、元村和彦[20]は渡米、ニューヨークでユージンらに来日して水俣病の取材をすることを提案した[21]1970年代は水俣病裁判とも重なり、日本全国各地で公害社会問題となっていた時期でもあった。

1971年8月16日、スミスとアイリーンは日本で開催する写真展のために来日[22]、元村は原宿のセントラルアパートの1室を2人の住居として提供、家賃も元村が負担した[23]。この時期に偶然街で見かけたスミスに声をかけたことが縁で、まだ写真学校の学生だった石川武志はスミスの無給のアシスタントになった[24]

来日して間もない8月29日、スミスとアイリーンは入籍[25]、結婚式は開かなかったが、アイリーンの母親が強く希望したので披露宴だけは芝のプリンスホテルで行っている[26]

同年9月3日から15日までの期間、新宿の小田急百貨店で写真展を開催[23]、それと同時にスミスとアイリーンは9日から15日にかけて初めて水俣を訪れ、以後3年間に及ぶ水俣での写真撮影を始めた[27]。最初に訪れた時には、スミスとアイリーンには、元村の紹介で、既に水俣病の写真を撮っていた写真家の塩田武史が案内役として同行[28][注 1]、まずは塩田が水俣に持っていた家に泊まりながら、水俣での生活の準備も始めた[27]

この時に2人が水俣市月ノ浦 (水俣病の多発地帯だった地域の1つ) に借りた家は、偶然だったが、溝口トヨ子 (水俣病の最初の公式認定患者) の両親が大家だった[30]。ここを生活の拠点にして、同年9月から1974年10月まで水俣での撮影は断続的に3年以上に渡って続けられる[4][31]
水俣プロジェクトの終焉[編集]1973年4月13日から17日までの期間[48]西武百貨店池袋店で写真展『水俣――生、その神聖と冒瀆』を開催した[4][48]後、ニューヨークへ飛び医師に診察をしてもらうと同時に、アメリカである程度大規模に発表できる媒体を探したが、写真雑誌『カメラ35』への掲載が決まった[49]。一方、写真展は同年10月に水俣で、その後は新潟でも開催された[50]

ニューヨークから日本へ戻り、再び水俣での撮影を続けたが、この頃はスミスの体調が悪かっただけでなく、経済的にも行き詰っていた上にアイリーンとの関係も悪化していたので、撮影プロジェクトは次第に終わりが見え始めていた

1977年12月、ツーソンへ引っ越した頃、写真集『MINAMATA』で最も有名な写真「入浴する智子と母」の被写体だった上村かみむら智子が亡くなった[61]。また、同年12月、スミス自身も検査入院から退院する日に脳出血の発作を起こすという災難に見舞われた[63][4]。この時は偶然病院にいたり、看護婦が早く気づいたという幸運もあって、回復することができた[64]。翌年には一時セミナーを行うまでになった[4]

1978年の春にアイリーンとの離婚が正式に完了し、シェリー・シュリスとツーソンで一緒の生活を始めたが、その年の10月15日に自宅そばの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、発作を起こして死去した[4]。飼っていたベイビーという名の猫のキャットフードを買いに行った食料品店で転倒、頭を打ったのが原因とみられる[64]。59歳没。日本語版『写真集 水俣』が出版されたのは、ユージンの死後の1980年である[65]

     水俣病特集 MINAMATA ユージン・スミスの伝言 - プレミアムA ...の画像 畏敬の念と、嫉妬と 水俣撮ったユージン・スミス、案内した写真 ...の画像philosophy-for-irene__04.jpg

※注:このサイトは、ユージン・スミスに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年7月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
日本全国各地で公害が社会的問題となっていた時期に、3年以上に亘って水俣に住みながら公害を撮り続けた世界的な写真家です。     合掌

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このメッセージは、 2024年7月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
日本全国各地で公害が社会的問題となっていた時期に、3年以上に亘って水俣に住みながら公害を撮り続けた世界的な写真家です。     合掌