墓地:善福寺(マップ)〒106-0046 東京都港区元麻布1丁目6−21
戒名:大観院独立自尊居士
福澤諭吉旧居・福澤記念館:(マップ)〒871-0088 大分県中津市留守居町586−35
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体: 福澤 諭吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家[1]。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」[2]。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)[3]。
もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[4]。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的となっている[注釈 1]。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある[5]。
慶應義塾(旧:蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。
ほかに東京学士会院(現日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。
昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている[6]。
経歴[編集]出生から中津帰藩、長崎遊学[編集]『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。
安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。
大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。
安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。
江戸に出る[編集]幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾[注釈 5]の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。
諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。
明治維新
妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。
戒名:大観院独立自尊居士
福澤諭吉旧居・福澤記念館:(マップ)〒871-0088 大分県中津市留守居町586−35
※メッセージの投稿や、想いでの共有はサインイン(記帳)で可能になります。
福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体: 福澤 諭吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家[1]。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」[2]。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)[3]。
もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[4]。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的となっている[注釈 1]。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある[5]。
慶應義塾(旧:蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。
ほかに東京学士会院(現日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。
昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている[6]。
経歴[編集]出生から中津帰藩、長崎遊学[編集]『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流の居合術を習得した。
安政元年(1854年)、諭吉は兄の勧めで19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ(嘉永7年2月)。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩の松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。
大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。
安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。
江戸に出る[編集]幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾[注釈 5]の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
安政6年(1859年)、日米修好通商条約により新たな外国人居留地となった横浜に諭吉は出かけることにした。自分の身につけたオランダ語が相手の外国人に通じるかどうか試してみるためである。ところが、そこで使われていたのはもっぱら英語であった。諭吉が苦労して学んだオランダ語はそこではまったく通じず、看板の文字すら読めなかった。これに大きな衝撃を受けた諭吉は、それ以来、英語の必要性を痛感した。
諭吉はようやく蕃書調所の原田敬策(岡山藩士、のちの幕臣)と一緒に英書を読もうということになり、英蘭対訳・発音付きの英蘭辞書などを手に入れて、蘭学だけではなく英学・英語も独学で勉強していくことにした。
明治維新
妻・お錦の実家である土岐家と榎本武揚の母方の実家・林家が親戚であったことから、榎本助命のため寺島宗則(以前の松木弘安)の紹介で官軍参謀長・黒田清隆と面会し、赦免を要求。その後、以前から長州藩に雇われていた大村益次郎や薩摩藩出身の寺島宗則・神田孝平ら同僚が明治新政府への出仕を決め、諭吉にも山縣有朋・松本良順らから出仕の勧めがきたがこれを断り、九鬼隆一や白根専一、濱尾新、渡辺洪基らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。
年譜[編集]
- 1879年(明治12年):東京学士会院(現:日本学士院)初代会長就任。東京府会副議長に選出されるが辞退。『民情一新』刊。
- 1880年(明治13年):専修学校(現:専修大学)の創設に協力し、京橋区の諭吉の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。9月、慶應義塾が塾生の激減により財政難に陥ったため、諭吉は廃塾を決意するが、広く寄付を求める「慶應義塾維持法案」を11月23日に発表して、門下生たちが奔走した結果、危機を乗り切る[46]。
- 1881年(明治14年)
- 1882年(明治15年)
- 1885年(明治18年)9月19日:英吉利法律学校開校式に参列[48]。
- 1886年(明治19年)12月11日:明治法律学校南甲賀町校舎移転開校式に参列[49]。
- 1887年(明治20年):伊藤博文首相主催の仮装舞踏会を家事の都合を理由として欠席する。
- 1889年(明治22年):8月、「慶應義塾規約」を制定。
- 1890年(明治23年):1月、慶應義塾に大学部発足、文学科・理財科・法律科の3科を置く。
- 1892年(明治25年):「伝染病研究所」を設立する(北里柴三郎が初代所長となる)。
- 1893年(明治26年):「土筆ヶ岡養生園」を開設する。
- 1894年(明治27年):郷里、中津の景勝・競秀峰を自然保護のため買い取る。
- 1895年(明治28年) - 30年(1897年):箱根、京都、大阪、広島、伊勢神宮、山陽方面へ旅行に出る。
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)
- 著書・著作 多数あり
- 墓[編集]諭吉は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに諭吉の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌(ゆきちき)と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。
- ※注:このサイトは、福沢諭吉に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
アルバム
報告
趣味はお酒?
無類のお酒好きだったという。中でもビールは好きで、「西洋衣食住」に紹介している。『「ビィール」と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し。』ここに出てくる「胸隔を開く」は、「腹を割る」の意味のようだ。みんなでビールを飲んで胸の内を語り合うのが楽しみだったのだろう。諭吉は30代で身体を壊し禁酒を試みるが、ビールだけはどうしても手放せなかったようで、「ビールは酒にあらず」との名言を言い放ち、飲み続けたという。
大阪で蘭学を学んでいた適塾時代に酔っぱらい、塾長の奥さんの前で裸をさらしたとのお酒の失敗エピソードが残されています。
大阪で蘭学を学んでいた適塾時代に酔っぱらい、塾長の奥さんの前で裸をさらしたとのお酒の失敗エピソードが残されています。
一万円札の肖像画となった理由
福沢諭吉は日本の学問に大きな影響を与えた人物ということもあり、1万円札の肖像画として採用されています。福沢諭吉が1万円札の肖像画として印刷されるようになったのは、2004年(平成16年)11月1日からです。
明治時代に活躍した啓蒙思想家のひとりで、理性の啓発によって伝統的な権威や旧来の思想を批判することで、人間生活の進歩や改善を図ろうとする思想です。身分に関係なく教育が受けられ慶應義塾には福沢諭吉の私財が注ぎ込まれました。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」
「自他の尊厳を守り、自分の判断や責任で行動を起こす」
権力にこびない、国家に依存しない個人の確立を重視した考え方は、そして行動力は賞賛に値します
明治時代に活躍した啓蒙思想家のひとりで、理性の啓発によって伝統的な権威や旧来の思想を批判することで、人間生活の進歩や改善を図ろうとする思想です。身分に関係なく教育が受けられ慶應義塾には福沢諭吉の私財が注ぎ込まれました。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」
「自他の尊厳を守り、自分の判断や責任で行動を起こす」
権力にこびない、国家に依存しない個人の確立を重視した考え方は、そして行動力は賞賛に値します