承継
軌跡

(幼少ー学生時代)

1965年昭和40年)11月29日東京都世田谷区自衛隊中央病院にて、陸上自衛隊防衛事務官の尾崎健一と妻の絹枝の次男として生まれる[1]。兄弟は5歳年上で、弁護士・元裁判官・埼玉弁護士会長の兄、尾崎康がいる。練馬区で育ち、練馬区立田柄第二保育園から練馬区立田柄第二小学校に入学した[1]が、1976年(昭和51年)8月、尾崎が小学5年生の時に埼玉県朝霞市へ転居し[9]、朝霞市内の公立小学校へ通う[1]。しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校するふりをして家を出たあと1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった[9]。尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めたことであった[9]。あらゆるフォークソングシンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水が描き出す詞の世界観に強く惹かれていた[9]。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさしイルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた[

(デビュー~10代全盛期)

高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBS・ソニーが主催した『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し[20]、CBS・ソニーのオーディションに合格する[1][21]

尾崎は浜田省吾の音楽が好きで[8]、プロデューサーの須藤晃も作品の匂いに浜田との共通点を感じて[8]、デビュー・アルバム『十七歳の地図』のレコーディングには浜田省吾と佐野元春のツアーバンドを半々起用した[8][22]。『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり[23][24]、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。

その後口コミにより人気が出て、4thシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり[25]、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録[26]、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった[5]

特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた[27][28]校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが露呈していた時代世相と相まって一部の若者の間で社会現象となる[27][注釈 4]。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。

(覚せい剤取締法違反で逮捕~復活~結婚)

一世風靡をした尾崎は、20歳になり方向性を見失い単身渡米するも収穫のないまま、その年の年末に帰国する。 その年の暮れに覚せい剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷する。

一方プライベートでは一般人の女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBS・ソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。