承継
この想いでサイトは、私たちの愛する人 阿久 悠(淡路島が生んだ大作詞家)さんを記念して作成されました。

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本名:阿久 悠(あく ゆう)
戒名:天翔院詞聖悠久居士
墓地:長谷寺墓地:長谷寺 (〒106-0031 東京都港区西麻布2丁目21−34) 日本


阿久 悠(あく ゆう、1937年〈昭和12年〉2月7日 - 2007年〈平成19年〉8月1日[2])は、日本放送作家詩人作詞家小説家本名は深田 公之(ふかだ ひろゆき)[3]淡路島兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原)出身。

来歴・人物[編集]ペンネームの由来は、広告会社勤務時代に放送作家として活躍を始めたが、兼業禁止の会社にばれないよう“悪友”をもじった筆名として使い始めた事から。深く考えずにつけたため、いずれは別の筆名にするつもりだったが、仕事が途切れなかったので、独立後も使い続けた[4]。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する[5])。長男は作曲家の深田太郎で、阿久作詞・深田作曲の楽曲も存在する。
1959年(昭和34年)に広告代理店宣弘社(現在の電通アドギア)へ入社する[10]。元々は映画脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家伊上勝が課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」と言われて、振られた仕事はCM絵コンテ描きだったという。絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のためにここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を書かせてもらえるものだと思っていたという。
また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画同棲時代』や『修羅雪姫』で名を馳せた「昭和絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し[10]放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。作詞家としての処女作はザ・スパイダースグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)[11]。初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」(1966年(昭和41年)11月発売)[12]。本格デビューザ・モップスの「朝まで待てない」(1967年(昭和42年)11月5日発売)[13]。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという[14]。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、1968年(昭和43年)に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした阿久の作詞作品となった[13]。また、この頃より死去までオフィス・トゥー・ワンに所属する。

その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲演歌アイドル歌謡曲フォークソングコミックソングアニメソングCMソングと幅広い。さらには日本テレビオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わる。

日本レコード大賞[編集]

日本レコード大賞での大賞受賞曲は作詞家として最多の5曲(1976年から1978年まで3年連続受賞)。

日本作詩大賞[編集]

日本作詩大賞は8回受賞。日本レコード大賞作詩賞と同じく、最多記録となっている(2014年現在)。

      明治大学博物館と阿久悠記念館 | 地図を見ながら
       阿久悠記念館   東京都千代田区神田駿河台1-1
             明治大学アカデミーコモン地階1階

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軌跡

(苦難の時期)

その人生は、決して順風満帆なものではありませんでした。
数々の逆境を乗り越え、最後まで歌を紡ぎ続けた隣には、彼を支え続けた妻(深田雄子)の姿がありました。

(ペンネーム阿久悠の由来)

広告会社勤務時代に放送作家として活躍を始めたが、兼業禁止の会社にばれないように「悪友」をもじった筆名として使い始めた事から、深く考えずにつけた。

そのうちに変えようと思っていたが、阿久悠で売れてきたのでそのままとなった。