承継
この追悼サイトは、 アベベ・ ビキラ(オリンピック・マラソンで史上初の2連覇を達成)さまのために作成されました。

享年41歳 、誕生日 1932年8月7日、命日 1973年10月25日
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マラソン選手へ[編集]
帰国後、親衛隊で訓練の一環として各種スポーツのトレーニングを受ける。その中で、足の速さが上官から注目されるようになる。1957年5月、四軍(陸海空および親衛隊)の陸上競技大会に親衛隊から選抜されて出場、マラソンで2位となり、1960年ローマオリンピックの陸上強化選手に選ばれる[5]。ここでスウェーデン出身の専任コーチであるオンニ・ニスカネン(Onni Niskanen、1910 - 1984)の指導を受ける。ニスカネンはクロスカントリーインターバルトレーニングを取り入れた科学的な練習を施した。

強化選手となった当初はアベベは目立った選手ではなく、親衛隊で同期(部隊は別)だったワミ・ブラトの方が長距離選手としては期待されていた。しかし、1960年に入ってアベベはニスカネンから特別メニューでのトレーニングを受けることになる。その理由について山田一廣は、アベベはニスカネンの指導を理解して吸収する能力に優れていたからではないかと記している[6]。ニスカネンはローマオリンピックのマラソンコースを視察すると、それに似た練習コース(フルマラソンより1km長い)をエチオピアのキャンプ地近くに作って走らせた。

7月にローマオリンピックの国内予選会で2位となり、マラソン代表に選出された[7][注釈 3]

ローマオリンピックでの金メダル[編集]
1960年9月のローマオリンピックに際しては、偶然に靴が壊れたため(さらに現地で新しい靴を買おうと思ったが自分に合うものがなかったため)裸足で走ることとなった。もともとアベベは子どもの頃から裸足で野山を駆け回っており、足の裏の皮は厚く、裸足で走ることに慣れていた[8]アベベはスタート当初は最後方に位置し、競技場を出ても最後方のままであったが、15kmを過ぎて先頭集団に入り、30kmでトップに出るとあとはそれを譲ることなく、当時の世界最高記録となる2時間15分16秒2で優勝した。レース前には全く無名で、アベベが先頭集団に加わると「あれは誰だ」という声が沿道からあがり、プロフィールにもほとんど記載のないアベベがゴールのコンスタンティヌス凱旋門に入ってきたとき各国の報道関係者も騒然となった。アベベはゴール後に「まだ余力はある。走れと言われればもう20kmぐらい走れる」と話した

1937年から1941年までイタリアに侵略、占領されていたエチオピア国民は、アベベの優勝に熱狂し、アベベはエチオピアの英雄となった。この功績により、帰国したアベベはハイレ・セラシエ皇帝に拝謁し、勲章を授与された。また半年後には兵卒から兵長に昇進している。この1960年は17のアフリカの国が独立を達成してアフリカの年と呼ばれ、アフリカ史において重要な年となった。

アベベの優勝は、アフリカの高地民族が長距離走への適性を持つことを世界に知らしめた。また、エチオピアの国土が空気の薄い標高2,000m前後の高地にあり、そこでトレーニングを積んだことで心肺機能が高められたのではないかという見解が示され、陸上競技に高地トレーニングが導入されるきっかけとなった

東京オリンピックでのマラソン連覇まで[編集]
250px-Abebe_Bikira_running_on_the_Koshu_Kaido.jpg東京オリンピックで甲州街道を走る(1964年)オリンピックチャンピオンとなったアベベには世界からレースへの招待状が届いたが、ニスカネンはその中から出場レースを慎重に選んだ。その一つに日本の毎日マラソン(後のびわ湖毎日マラソン。当時は大阪府で開催)が含まれていたのは、次回のオリンピック開催国を下調べするチャンスという意図があった[9]。このレースではコースに入ってきた大群衆や対向車線の自動車とオートバイ、それに気温27度・湿度77 %という悪条件が重なり、レース中に立ち往生するというアクシデントもあって、優勝はしたもののタイムは2時間29分27秒と平凡だった。2位には同僚のワミが入っている。アベベ見たさに押し寄せた自動車やオートバイの排気ガスが記録を低調にしたとされ、かねてから交通事情悪化に悩まされていた毎日マラソンは、これを契機に、翌年より滋賀県に開催地を変更している[10]

また、1961年には出場した3つのレースすべてで優勝を飾ったが、1962年はレースに出場せず、1963年のボストンマラソンは5位とふるわなかった。国民の期待や、走ることで得た地位から来る重圧があった。このころ、妻には「走ればまた勝つと思われているっていうのは辛いことだな」という言葉も漏らしたという[14]。ローマで樹立した記録は1963年2月に寺沢徹が更新、その後もバディー・エデレン英語版)やベイジル・ヒートリーが短期間に記録を塗り替えていた。

1964年春、アベベは軍曹に昇進した。5月にアディスアベバで1年ぶりにマラソンを走って優勝。8月の東京オリンピックの国内予選では自己2位となる2時間16分18秒8で優勝し、代表に選ばれる。しかし、競技の6週間前に盲腸の手術を受け、ニスカネンの立てた練習スケジュールは大きく狂った。このため、日本の代表選手のコーチたちも「アベベはマークの対象にしていなかった」とのちに語っている[15]。アベベはエチオピア選手団の一員として9月29日に来日し、代々木選手村や隣接した織田フィールドで毎日走った。10月10日の開会式ではエチオピア選手団の旗手を務めている[注釈 4]

10月21日の東京オリンピックマラソン本番では、20km地点辺りから独走態勢に入り、全く危なげのないレース運びで[注釈 5]、ヒートリーの記録を1分44秒縮める2時間12分11秒2の世界最高記録で、再び金メダルを獲得した近代オリンピック史上、マラソンの種目で二連覇はアベベが初めての快挙であった。それ以後、オリンピックのマラソン競技で世界(最高)記録を樹立したランナーは出現していない。

アベベはゴールした後に疲れた様子も見せずに整理体操を始め、7万人の観衆を驚かせた。後にアベベは「まだあと10キロは走れた」と語っている。

ミュンヘンオリンピック~晩年[編集]
1972年9月のミュンヘンオリンピックでのアベベは、組織委員会から過去の著名な金メダリストの一人として招待を受け、車いすの姿で開会式にゲスト出演し、その後も会場で競技を観覧している。自らが動けないことで「競技を見るのが辛かった」とのちに妻に語ったが、マラソンでエチオピア代表のマモ・ウォルデが3位に入り銅メダルを獲得、アベベと同じく五輪二大会連続メダリストの快挙を大いに喜んでいた[20]

晩年のアベベはこのように体が不自由な状態ながらも、生涯スポーツに関わり続けようとしていた。しかしミュンヘン五輪からわずか1年後の1973年10月25日、アベベは脳出血により首都アディスアベバにある陸軍病院にて41歳でその生涯を閉じたのだった。因果関係は明確ではないものの、自動車事故の後遺症が脳出血の遠因であるとみられた。

アディスアベバにはアベベの名前を冠した国立スタジアムがある

                          1972年ミュンヘンオリンピックを車いすで観戦
          1972年ミュンヘンオリンピックを車いすで観戦するアベベ

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軌跡

(生い立ち)

当時のショア州(現在はオロミア州セミエン・ショア地区英語版)))にあるデュノバのジョル村で生まれる[注釈 1][2]。家は貧しい小作農で、家族は当時の国教であるキリスト教コプト派(エチオピア正教会)の信者でもあった。小学校には1年通っただけで早くから家業の手伝いをしていた。彼の筋力とスタミナは、小さな頃から家族を助けるために重い荷物を背負って長い山道を行き来する生活で養われた[3]

19歳の時、皇帝ハイレ・セラシエ1世の親衛隊に入隊し、アディスアベバの部隊で訓練を受けることとなる。10ヶ月の訓練期間の後、当時エチオピアが参加していた国連軍として、朝鮮戦争に従軍するため釜山まで派遣されるが、ほどなく休戦となり帰国した