(幼少時代)
愛知県清須市(旧:西春日井郡清洲町)[9]に長男として生まれる[6]。生コン会社の敷地内にある一軒家に住んでいた[32]。子供の頃から絵を描くことが好きで、腹を空かせながら漫画を描くのを唯一の楽しみにしていた[33]。欲しい物があるとそれを手に入れるまで、あるいは興味がなくなるまで絵に描き続ける癖があり、その癖は漫画家になって以降も続いている[34]。「当時通っていた絵画教室で描いた『101匹わんちゃん大行進』が表彰されたことで自信を持った」と言い[35]、小学校の写生コンクールで数回入賞し、高校2年時にはには美化キャンペーンのポスターで全国高校生の部に『自然を返せ』で入賞している[6]。妹がいて[4][32]、その子供は則巻ガジラのモデルとなった[36]。よく悪戯をしていて、父親に怒られていた[37]。
尊敬していた漫画家は手塚治虫とウォルト・ディズニーで、『鉄腕アトム』に登場するロボットを毎日いたずら描きしていた[38]。一番影響を受けたのはディズニーアニメであり[39]、『101匹わんちゃん大行進』の影響を受けて毎日模写をしていた[40]。
尊敬していた漫画家は手塚治虫とウォルト・ディズニーで、『鉄腕アトム』に登場するロボットを毎日いたずら描きしていた[38]。一番影響を受けたのはディズニーアニメであり[39]、『101匹わんちゃん大行進』の影響を受けて毎日模写をしていた[40]。
(学生時代)
中学は愛知県西春日井郡清洲町(現:清須市)の町立清洲中学校に通う[41]。
高校は愛知県一宮市の愛知県立起工業高等学校(現:愛知県立一宮起工科高等学校)に入学[42]。幼少時は漫画やアニメに熱中したが、小学校高学年以降は映画やテレビドラマに興味の対象が移り、漫画に触れる機会が無くなっていたが[43]。しかし、絵を描くことは変わらず好きで自信もあったため、高校では美術部に所属した[42]。「高校時代はマンガ研究同好会に所属し、同好会の会長にもなったが漫画を描くことはなかった」という[44]。鳥山が漫画同好会を設立するに当たり、教諭に同会顧問に就任してほしい旨を頼んだところ、教諭は一旦は「漫画を描いている暇があったら、デッサンでもやっておきなさい」と断ったものの、鳥山は別の教諭に依頼して同好会を発足させ、後に部に昇格した[42][6]。その後高校を卒業し[45][42]、就職している。
高校は愛知県一宮市の愛知県立起工業高等学校(現:愛知県立一宮起工科高等学校)に入学[42]。幼少時は漫画やアニメに熱中したが、小学校高学年以降は映画やテレビドラマに興味の対象が移り、漫画に触れる機会が無くなっていたが[43]。しかし、絵を描くことは変わらず好きで自信もあったため、高校では美術部に所属した[42]。「高校時代はマンガ研究同好会に所属し、同好会の会長にもなったが漫画を描くことはなかった」という[44]。鳥山が漫画同好会を設立するに当たり、教諭に同会顧問に就任してほしい旨を頼んだところ、教諭は一旦は「漫画を描いている暇があったら、デッサンでもやっておきなさい」と断ったものの、鳥山は別の教諭に依頼して同好会を発足させ、後に部に昇格した[42][6]。その後高校を卒業し[45][42]、就職している。
(デザイン会社時代~)
高校を卒業した1974年、絵を描く仕事に就きたいと思い、地元の広告関係のデザイン会社「第一紙行名古屋支店」[46]にデザイナーとして就職した。
しかし、平然と遅刻を繰り返し[47][48]、レタリング作業が主な仕事になり嫌気が差していたという。最終的に、約2年半[49]ほど経った1977年[50]1月[51]に退職した。本人は「わずかでも世間の仕組みを知ることができて、無駄ではなかった」と述べている[49]。
しかし、平然と遅刻を繰り返し[47][48]、レタリング作業が主な仕事になり嫌気が差していたという。最終的に、約2年半[49]ほど経った1977年[50]1月[51]に退職した。本人は「わずかでも世間の仕組みを知ることができて、無駄ではなかった」と述べている[49]。
デビューまでの経緯[編集]
デザイン会社を退職後、1年間はアルバイトでイラストを手掛けていたが[6]、その後は遊ぶ金もなく途方に暮れていたある日、喫茶店で偶然手に取った漫画雑誌の『週刊少年マガジン』で、新人賞の作品募集の記事を見つける。入賞すると賞金50万円が手に入ることを知り、23歳の誕生日[1]に初めて漫画を描き始めた[52]。結局、締め切りには間に合わなかったため、1978年1月に『週刊少年ジャンプ』の新人賞である月例ヤングジャンプ賞へ応募作品の『アワワワールド』を投稿する[39][53]。投稿したのはギャグ漫画であるが、その理由はストーリー漫画と賞金が一緒なのにページ数は半分であったため[48][54]。