矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で、後に師匠となる
4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。この時に「
高津の富」を教わる。
やがて、師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、
1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目
桂米朝を名乗る
[9][10]。一旦勤めを辞めて米團治宅の
内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の広畑
郵便局員として1年ほど勤務した
[11]。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。