このサイトは、主に日本にお住まいの方に向けて、故鄭炳浩さんを偲び、故人への思いを共有するために作られましたが、韓国やアメリカなど他の国からの投稿も可能です。
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12月9日午後3時半、ソウルのアサン病院の葬儀場で、チョン・ビョンホさんの葬儀が始まりました。
私たち浄土真宗僧侶4人(殿平善彦さん、尹丁九さん、殿平真さん、吉川)は、チョン・ジンギョンさん(ビョンホさんの奥様)はじめ、ご遺族友人の方々が参列されている中で、日本の仏教式葬儀を執行しました。私は読経中、白い生花に囲まれた微笑みのビョンホさんの写真を見上げていました。弔辞は殿平さん。「ビョンホ、死んだとは思えない。私を見送ってほしかったのに、逆になった。1989年からの大切な親友だった。ビョンホの思いを受け継ぐ」。
◆1989年秋、深川市の喫茶店『ふれっぷ』で殿平さんとビョンホさんが初対面の挨拶を交わしました。以来1か月余、ビョンホさんは一乗寺の庫裏に泊まり続けました。ある日、殿平さんから一本の電話がありました。「素敵な韓国人青年が寺に来ている。お前に会わせたい」。後日、一乗寺で会ったビョンホさんは、穏やかな笑顔の理知的な文化人類学者(当時延世大学講師)でした。ビョンホさんは私と同じく映画「男はつらいよ」が好きだと分かり、瞬時に意気投合し飲み語り合いました。私の教育論にとって、「寅さん」は個人の尊厳、多様性の教材でした。
ビョンホさんは日本文化理解の一つとして、教え子の学生たちに「男はつらいよ」のビデオを観せたとのこと。ちょうどこの頃、韓国で民主化が始まった時期とはいえ、長い軍事政権下の名残で日本文化禁止状態でした。広島に帰った私は、シリーズの中でお気に入りの数本を送りました。ビョンホさんは民主化運動の闘士だったので、見つかって捕まらないかといつも不安でしたが、杞憂に終わりました。
実はこの頃、「まだ朱鞠内の熊笹の土の下に日本・朝鮮人強制労働犠牲者が埋まっている」と語る殿平さんに、「僕が教授になったら、韓国から学生を連れてきてお手伝いをする」とビョンホさんは語ったそうです。その後、殿平さんが企画した「宗教と教育」ニセコセミナーでは、私が薦めた講師の森田俊男先生(後の平和・国際教育研究会会長)と、ビョンホさんの初の出会いが実現しました。殿平さんと2人の間の共感・信頼は、以後の日韓平和教育交流の発火点になりました。
◆1992年3月、殿平さんは韓国の遺族への遺骨返還を実現し、ビョンホさんと出会いもさらに深まっていきました。8月、平和教育研究「森田塾」(代表:森田俊男先生)の「北の大地集会」が朱鞠内で開催されました。この集会には講演者のビョンホさんとジンギョンさん夫妻も参加されました。集会の中でビョンホさんは韓国での民主化運動の抵抗歌「朝露」(アチミスル)を披露。夕闇の森の中で大合唱になりました。
1993年12月、ビョンホさんたちの尽力で日韓から宗教者、学者、教員それぞれ約10名ずつによる日韓平和教育ワークショップが実現しました。ソウルの延世大学や俗離山で学習・交流が繰り広げられ、ジンギョンさんも顔を見せてくださいました。韓国の皆さんとの交流は胸ときめくものでした。軍事政権下、人権の圧殺に抵抗してきた闘士達。平和と民主主義を取り戻し夢と希望に満ちた姿を目の当たりにしました。国境を越えた東アジアの近現代史を意欲的に学ぶ刺激と共に深い感動の輪に包まれました。
ビョンホさんの教え子で日本語達者な安君(大学4年生)と夜遅くまで語り合いました。過去の日本の軍国主義的植民地支配に批判的な彼が言いました。「『寅さん』との出会いで、これまで思い込んでいた画一的なイメージの日本人とは違う、自由で個性的な一面を発見しました」と。就職は日本の会社を希望していると語りました。
過去の日本の戦争責任の歴史を直視しつつ、ビョンホさんたちが語っていた「固有名詞」の出会いの中でこそ、民族の違いをのりこえ、人間の尊厳性を学べることに気付きました。
◆1997年8月、ビョンホさんは約束通り漢陽大学教授になり、殿平さんと共同代表として、朱鞠内での第1回「日韓共同ワークショップ」を開催(2001年からは「東アジア共同ワークショップ」)。韓国人、在日韓国・朝鮮人、アイヌ、日本の若者たちが寝食を共にしながら共同遺骨発掘などのフィールドワークが始まりました。その後、毎年夏と冬、韓国、大阪、台湾、そして北海道各地(朱鞠内・浅茅野など)で今日に至っています。「共同生活体験を通じて、集団的偏見を乗り越え個人としての出会いと理解」(チョン・ビョンホ「希望と連帯を求めて―強制労働者の記憶と帰還」p23、『抗路』2024年12月10日発行)が生まれたのです。
計10回の遺骨発掘と共に遺族探しと相互文化理解をテーマにしたフィールドワーク。延べ2000人を超える若者たちが民族・国境を越えて取り組みました。土中から姿を現した遺骨と出会う中で、若者たちと一緒に私も闇に埋もれていた被害・加害を踏まえた、歴史に立ち会いました。「犠牲になった一人ひとりの個人史を復元し、一つの生命としての尊厳性を取り戻そうとした」(チョン・ビョンホ前著p22)体験といえます。
◆ビョンホさんの大らかで責任感あふれる人柄に吸い寄せられるように、若者たちがWSに集まってきました。そして参加者一人一人が国境・民族を超え、歴史の真実に向き合い学び、個性豊かに育っていく様子をこの20年あまり目にしてきました。
集大成されたのが2015年9月の「韓国への遺骨奉還―70年ぶりの里帰り」。広島別院での追悼法要。参列し朝鮮民族としてのアイデンティティや高暮ダム学習を発表する広島朝鮮学校や日本の高校生・大学生たちを温かく見守り励ました韓国代表のビョンホさん。とりわけ、ビョンホさんから応援されて感動したのは朝鮮学校の生徒たちでした。
ご遺骨とともに私と次男も訪韓しました。韓国の遺骨奉還実行委員の中に韓国の大学生たちがいました。私はインタビューを受け、遺骨奉還活動と関わって高暮ダムに触れました。彼らに依頼され、翌2016年8月、韓国の大学生8名を高暮ダムに引率しました。ビョンホさんたちの自由と平和の精神が広く韓国の学生たちに浸透していると感じました。
◆ビョンホさんは長らく韓国と北朝鮮の子どもたちが似顔絵で交流する運動(朝鮮半島の平和を目指すNGO「オリニオッケドンム」)を立ち上げ、北朝鮮の子どもを守るために飢饉救護活動に尽くしていました。1997年、広島で私たちは、李実根さん(広島県朝鮮人被爆者協議会会長、20年3月死去)を代表に「北朝鮮の子どもやお年寄りへの食糧支援の会」を僧侶・教師仲間と結成しました。北朝鮮の水害・飢餓に対し、「国家・民族・イデオロギーをこえた隣人支援」が念願でした。約2000万円の資金・食糧を携え4度にわたって訪朝団を派遣しました。
私が勤務する中高校ではサークルや生徒会が集めた鉛筆・文房具を、李さんたちがケソン・ウンパなどの学校訪問で直接手渡しました。1998年8月、ソウルで「日韓共同ワークショップ」「平和・国際教育研究会」「南北子どもオッケドンム委員会」「ハンギョレ新聞社」共催の「日韓平和教育シンポジウム」が開催されました。私は分科会「韓半島統一と東アジアの平和」で「北朝鮮の子どもたちに鉛筆を」と題して、生徒たちの取り組みを李さんの思いに触れながら発表しました。「どんな国家体制であれ、人間の尊厳を保障するための人道支援」が願いでした。ビョンホさんが強く発表を勧めてくれただけでなく、私の発表資料まで作って下さいました。
シンポジウム終了後、日韓共同ワークショップが開催され、私は日・韓・在日の学生たち10数名と共に強制連行体験者聞き取りに忠清南道のおじいさんを訪ねました。私たち日本人の存在で、一気に冷たい空気になりました。通訳の韓国の女子大学生が必死に間を取り持ち、日本の侵略を学ぼうとする日本の学生たちの思いをおじいさんに伝え、全員で学び合うことができました。私は高暮ダム追悼での李さんと取り組んでいることを伝えました。彼女たちは今日でもビョンホさんの「平和の踏み石」活動に取り組んでいます。
◆その後、ビョンホさんに誘われ、殿平さんや吉田康彦さん(元国連広報官、24年10月死去)方と共に済州島に向かいました。ちょうど『火山島』作者の金石範氏の講演があり、済州島では村民の多くが殺害されたという1948年の「四三事件」を知りました。ビョンホさんから、まだ実態は闇で語らない遺族も多いと伺いつつ、多くの島民や抵抗した人々がこもったハルラ山(1947m)に点在する洞窟を訪れました。トンネルは狭く息が詰まる中、日本の植民地支配の結果による朝鮮半島分断の悲劇に思いを馳せました。
一転、ビョンホさんから「泳ぎましょう」と誘われたものの、ビョンホさんは海水パンツがなかったので、私の余分の短パンをはきました。私からのプレゼントになりました。海中から顔を出したビョンホさんから「はーい、キッカワさーん」と呼び掛けられ、私も波をかき分け手を振りました。あまりの嬉しさにビョンホさんの携帯を借りて日本へ電話。ちょうど高暮ダム追悼式に参列中の李さんの感動の声でした。初めて2人の間を取り持つことができました。もちろん李さんと殿平さんとも喜びの会話。
2014年秋、ビョンホさんと殿平さんが広島に来てくれました。「東アジアの平和と友好を目指して」(広島宗教者平和協議会主催)のテーマで2人が講演。殿平さんは若者たちによる朝鮮人強制労働犠牲者の遺骨発掘と東アジア共同ワークショップの取り組みを語りました。ビョンホさんは、北朝鮮をめぐる厳しい政治的緊張関係と共に北朝鮮の実態や民衆への温かい思いを述べました。講演後、広島の僧侶や門信徒、キリスト者、教師や市民との楽しい交流会となりました。
おわりに
ビョンホさんからよく電話がかかってきました。「元気ですかー」「ソウルの我が家に来てくださーい」と、いつもの温かい声。日本にいる時、ビョンホさんは欠かさずジンギョンさんに電話をしていました。そんな時、必ず私に電話を替わってくれました。どうしても細かいことはビョンホさんが電話に耳を寄せ「通訳」。聴こえてくるのはジンギョンさんの優しい笑顔が浮かぶ声。
ビョンホさんとジンギョンさんの深い信頼と尊重し合う愛情を感じました。ビョンホさんの人格と活動を最も支え続けたジンギョンさん。2024年2月と9月の2回、ビョンホさんとは殿平さんも一緒に、朱鞠内の宿や一乗寺の庫裏で飲み語り、時には同じ部屋で泊りました。その時も、「ソウルの私たちの『海の家』に泊まりに来てください」と言われました。「来年は必ず泊まりに行きます」と、私ははっきりお返事したのですが…。
*ビョンホさんの葬儀場で、優しく私と握手してくださったジンギョンさん、 気丈にご親族、友人たち弔問者に挨拶されていました。お疲れ出ませんでしたでしょうか。私も殿平さんや多くの仲間の皆さんと共にビョンホさんの願い「東アジアの平和と友好」のための努力してまいります。
2025年1月6日 広島市 吉川徹忍
お別れの会の当日、Zoomで参加させていただいた後、昨年のワークショップで入手したDVD「長き眠り」を観ていました。先生のお姿が、そこここに溢れていました。昨年初めて朱鞠内のワークショップに参加した私は、チョン・ビョンホ先生がいかに大きな存在だったか、殿平先生にとって、そしてここに集うすべての人にとって、どれほど大切な人だったかということをあらためて痛感しました。昨年のワークショップで、朝鮮大学校の若者たちの話を聞いて、私が、「自分が『うちなーぐち(沖縄の言葉)』という自分の言葉と、(1879年に琉球が日本に併合されて以来、名前を日本風にして)名前を失った人間だと痛感した。今日から『あらぐすく』という琉球王国時代の名前を名乗ります」と宣言した時に、私の方を向いて大きく頷きながら、熱烈に拍手してくださったのが先生でした。先生の温かなお優しい笑顔を忘れられません。先生のご遺志を継いで、日本が植民地主義で誰かを犠牲にして生きることをやめ、日本と韓国・朝鮮が対等な友人として出会い直すため、私は日本の中のマイノリティ、沖縄人という立場から、微力を尽くしたいと思います。チョン・ビョンホ先生、ありがとうございました。
新城肇(しんじょう・あらぐすく・はじめ)
いただいた訃報によればビョンホさんはわたくしと同い年で実の入らない当方の人生とは大違いの素晴らしい時間を過ごされたのだと敬意と同時にこちらのそれを恥じ入るばかり。
鄭炳浩(チョン・ビョンホCHUNG Byeong-ho)さんと言えばいつも真っ先に思い出すのは、1995年12月の平和・国際教育研究会京都集会のことです。
ここに韓国から徐勝(ソ・スン)さん、都鐘煥(ト・ジョンファン)さん、鄭炳浩(チョン・ビョンホ)さんのお三方が参加され、ソ・スンさんとは夕食の席が隣同士になり、日本酒を差しつ差されつした時間がありましたのに、韓国の民主化運動を闘ってこられた方と近くに座って緊張と光栄な気持ちでぼうっとしてしまったためか何を話したか記憶を呼び起こせないのが残念です。
ト・ジョンファンさんとは話をするうちに詩を書かれる方だということが判り、その詩を日本語で読みたいとお伝えすると『私も日本語訳してもらうことが可能なら、そんなに嬉しいことはない』と語り、当時わたくしと何度かやり取りがあって、ハングル語学習者として達人レベルに達していた詩人の茨木のり子さんに『都鐘煥さんという方がご自身の詩集の日本語訳の希望をお持ちだが、読んでいただいて、これならぜひ訳したいと思ってくださるなら』とトさんの詩集を3冊添えてお送りした。
しかし折悪しく眼病を患って苦しんでおられたところへのお願いとなり『残念ですけれど、ご放念くださるよう』との返信をいただいた。
京都集会の日程で第3日は午前中にいくつかのグループに分かれてフィールドワーク、そのまま午後(京都駅で?)解散になるという日程。チョン・ビョンホさん達は、出発の時間の直前に朝まで飲み交わして語り合ったのだろうそのままの風情で、韓国からのお三方と殿平さんともうお一人の日本人参加者(吉川さんでしたか)が、組んず解れつの状態で『森田先生にご挨拶したい』と部屋から転げ出て来られたという印象。
『日韓の国境を越えてここまで和解と交流が深まるものなのか』と驚愕したことを思い出します。
我々は見送られ出発し、5人組はなおも交流を深めるか前の晩に使いすぎたエネルギーのチャージをした(爆睡した)かどちらかで宿に残られた。思い返せば私が参加できなかった92年の北海道は朱鞠内集会の時に雨龍ダム建設の強制行で命を落とされた朝鮮半島出身の人達の遺骨発掘、供養、遺骨返還というこれ以上はない和解の行動の途中で、京都の宿のあの朝の光景があったのだと思い当たるのです。
折も折、「新しい戦後」と日本と東アジアがそこに向かうことを止める方法の模索をテーマに開かれた今日、あの12月8日のオンライン研究集会のその当日に訃報が届いたチョン・ビョンホさんのご逝去ですが、日本と朝鮮半島、アジアも世界の激動の渦の中に呑み込まれそうになっている今こそ、ビョンホさんたちとの和解の行動がさらに進むよう願い、平和・国際教育研究会の宗教部会が模索して来られたことを支援し、また引き継ぎたいと思います。
ご冥福と同時にビョンホさんの魂が私たちの心の中にいて、進む道を照らしてくださることを祈ります。
韓国のみなさんと平和・国際教育研究会宗教部会が拓き積み重ねてきた交流を改めて心に刻み、その尊い行動と和解の心を広げたいと思うものです。
どうかわたくしの心も一緒に韓国に連れて行ってください。
2024年12月8日
管 幹雄
平和・国際教育研究会の一会員として
[email protected]
それ以来の長いつきあいです。博士号を取得して研究職に就かれてからも、何度かお会いしましたが、とりわけ2007年6月に韓国社会学会50周年記念式典に出席のためソウルを訪れたときには、たいへんお世話になりました。そして、2022年10月と2023年5月、久しぶりに京都で食事を共にしました。そのとき彼は、退職していくらか時間の余裕もできたから、ぜひ「美しい海辺」の自宅に来てほしいと言い、私もそのうち必ず訪ねますと応じたのでしたが……。
いま、思いもよらない訃報に接し、以前に一度お会いしたことのある奥様にお悔やみを申し上げる以外、言葉もありません。ほんとうに残念です。
(井上 俊)
昨日、無事に鄭炳浩先生のお葬式を終えました。火葬場まで大勢の人々が来てくれて、鄭先生を見送りました。鄭先生にはお子さんがおらず、私達弟子たちが先生の葬儀で喪主の役割を担いました。その報告と、弟子としてのメッセージは後日また改めてここに載せたいと思います。
本日は、12月9日に葬儀場で開かれた追悼式で殿平先生と徐勝先生が述べられた追悼の辞を共有いたします。
https://www.youtube.com/watch?v=8JjTcRyfon0
https://www.youtube.com/watch?v=4Yq8MmsONO4
しかし先生が蒔いた種は大きく成長しています。私が関わっている東アジア青少年歴史体験キャンプの参加者が東アジアワークショップに参加しているので、時々参加していました。
香織から朱鞠内でキャンプをやってとの提案があり殿平さんの講演を含むご協力で有意義なものに出来たこともありました。個人的には連れ合いの義父の親族探しで英丸や里奈のおかげで探し当てることもできました。感謝しかありません。
私たちにとってキャンプから広がる出会い、特に台湾のメンバーとは質的に違うなと喜んでいるところです。
どうか安らかにご冥福を祈らせていただきます。
はじめてチョン・ビョンホさんにお目にかかったのは、2007年に行われた猿払村での共同墓地掘りおこしでしたでしょうか。その後も2016年の浦河町杵臼へのアイヌ民族のご遺骨の再埋葬などの場でお会いしました。その間にも、朝鮮人強制労働犠牲者のご遺骨の返還準備のために殿平善彦さんと韓国を訪れた際には、ソウルのご自宅に招いてくださいました。
ビョンホさんはほんとうに優しい人でした。札幌に来てアイヌのご家族に接する時にも、優しく思いやりのある物腰が一貫していました。日本人との間でも、戦争や植民地の責任があるにも関わらず、そうした歴史の垣根を越えて、いつも人として温かく接してくださいました。研究上の業績や市民活動の軌跡はもちろん顕著なものがありますが、それ以上にビョンホさんの優しさと朗らかさが心に残っています。そのことで分断された人々のあいだに橋をかけていかれたのでしょう。
心からの敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
京都巡回展では、ガイドしている最中に、後から背中を叩く人がいて、誰かと思えば、チョンビョンホ先生が笑いながらお声がけしてくださり、「川那辺さんがガイドしてくださっていること、凄く嬉しい。」と言われ、その晩はキチャン先生の家に宿泊されるとのことで、京都の醍醐の家までご一緒させていただきました。「むくげの会で韓国に来ることがあれば、必ず連絡ください。」と、携帯電話とメールアドレスを教えてくださいました。来年の春、むくげの会の合宿で韓国に行くことになっていただけに、とても残念に思っています。WCメンバーは勿論のことですが、むくげの会のメンバーもチョンビョンホ先生と親しくさせて頂いた方もおられるので、それだけに、とても悲しく思っています。もっと多く語り合いたかったです。今は、チョンビョンホ先生と出会いお世話になったことは、決して忘れません。どうぞ安らかにと、謹んで心よりご冥福を祈ります。
不屈の愛を持って社会や歴史の理不尽に向き合ってこられた、やさしい闘士だと思いました。ワークショップを作り、東アジアにたくさんの友人が育つ基盤を作ってくださったことに、感謝申し上げます。
先生のご遺志を継いでいきたいと思っています。どうぞお見守りください。
鄭炳浩先生とお会いしたのは、2015年の遺骨奉還の時でした。私は、それまで東アジア共同ワークショップのことも遺骨発掘のことも何も知らなくて、せっかく広島で法要を開くのだからと実行委員会に参加し、その後、ソウルまでご一緒させていただきました。
いろいろとお話を伺い、なぜ遺骨奉還が必要なのかも教えていただきました。
今年9月の朱鞠内「笹の墓標強制労働博物館」開館式には参加できませんでしたが、先生が参加されたことを聞いて、まだお元気でまたいつかお会いいしてお話を伺うことができるだろうと思っていた矢先の訃報連絡でした。
永案の安息をお祈り申しあげます。
本日、先生の追悼式ZOOM中継にご参加くださった皆様、誠にありがとうございました。先生も喜ばれたと思います。
急な告知で間に合わなかった方々のために、録画を共有します。
一眼レフで撮った映像もありますが、容量が大きいので、また後日共有させていただきます。
ひとまずはこちらをご覧ください。
https://drive.google.com/file/d/1a87JudDlAFfuKEkIN0udi_jwjljmeU8u/view?usp=sharing
金セッピョル
私は、ワークショップの場で初めて、ありのままの何者でもない自分を受け入れてもらえ、どう生きていきたいのかを共に模索する大切な家族のような友人たちを得ることができました。
朝鮮人強制徴用とはなんだったのか、そして今を生きる私たちに何ができるのか、いつも先頭に立って力強く、心強く導いてくださったこと。
直接たくさんの会話をした訳ではありませんでしたが、気にかけてくださっていたこと、かわいらしい笑顔と共に名前を呼んで気持ちを分かち合ってくださったこと、忘れません。
子どもを産み、子育てをするようになった今、ビョンホ先生がされてきた共同保育の取り組みやその想いについてのお話を聞いてみたかったですし、子どもとどんな関わりをするのか、悩みや喜びについて分かち合いたかったです。
ずっとお元気だと思って、会いに行こうとしていなかったこと、後悔しています。
ビョンホ先生が切り開いてきてくださった平和への道を引き継いで、過去と今と未来を照らす人々の輪を作っていきます。
本当にありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
道又嘉織
鄭ビョンホ先生、
長い年月をご無沙汰していました。
私のことを記憶されていらっしゃるでしょうか。
初めてお会いしたのは2002〜3年頃、私がソウルに暮らし、東アジア共同ワークショップに参加しながら、在日コリアンとしての悩みの中にいた頃です。
ある日、ひょんなきっかけで先生から思いがけず大学で勉強をしないかとお声をかけていただいたことをおぼえてらっしゃいますでしょうか。
その時私はそのアドバイスを素直に上手く受け取ることができませんでした。
それから20年以上の年月が過ぎてようやく今私は勉強をしています。
今がその時期だったのかもしれないと思っています。
もしももう一度お会いできたなら、そんな私の拙いお話しではありますが聞いていただきたかった、そんなわがままな気持ちを密かに抱いていました。
殿平先生と鄭ビョンホ先生お二人の友情から始まった東アジア共同ワークショップに流れる文化があると思っています。
その東アジア共同ワークショップ文化を少しでも引き継ぐ一人として、これからどこにいても、それを大切にしながら頑張っていきます。
とうぞ安らかにお眠りください。
大変おつかれさまでした。
どうもありがとうございました。
어떠한 삶을 살아가야 하는지 많은 고민이 들 때는 선생님께 받은 가르침을 떠올리겠습니다.
앞으로도 저의 삶의 등대로 계셔주실 것이라 믿습니다.
鄭さんが、甲南大学イリノイセンターに赴任されてすぐに、むくげの会ゲストディにきていただきました。今年も韓国でお会いしました。『人類学者がのぞいた北朝鮮 苦難と微笑の国』をいただきました。
ご家族のみなさまに神様のおなぐさみをおいのりいたします。
神戸学生青年センター/強制動員真相究明ネットワーク 飛田雄一(HIDA Yuichi)
こんにちは。鄭炳浩先生の弟子、金セッピョルと申します。
あまりにも突然のことで、来たくても来られない方がたくさんいらっしゃるのではないかとお察しします。
9日(月)15時40分から殿平先生の読経を含む追悼式が行われる予定ですが、それをzoomで繋げてみようと思っております。
パソコンとスマホを利用するつもりですので、画質・音質は保証できませんが、よろしければ以下のリンクからお入りください。
許されれば録画もする予定です。
https://kwansei-gakuin.zoom.us/j/87446075226?pwd=naTj6gB8S2byD1iR2gw3WQWBirM8Pg.1
ミーティング ID: 874 4607 5226
パスコード: 414938
もし変更がありましたら、また投稿させていただきます。
金セッピョル
その後、私が米国イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で客員教員として所属していたときに、鄭先生が殿平先生らとともにいらっしゃいました。あのときのシカゴフィールドワークは楽しすぎて、忘れられない思い出になりました。
ソウルでお目にかかったときは以北出身者が経営する冷麺の店を案内して下さいましたし、今年の2月には朱鞠内で「共感対話」という貴重なイベントに参加することができました。
そして、今年の9月に朱鞠内で「笹の墓標強制労働博物館」開館式に合わせてお目にかかったとき、これが最後などとまったく思いませんでした。
鄭先生から学んだことは心に刻んでいこうと思います。
こころよりご冥福をお祈り申し上げます。
人とは、その人が生まれなかった世界と、その人が生まれてきた世界の差ではないか。と言うある人の言葉をまた思い出しました。
鄭炳浩先生が指導する学生だった夫と韓日共同ワークショップで出会い、結婚し、先生の丁寧なご指導のお陰で夫が米国で博士号を取得し、子供達と出会えました。先生がいらっしゃらなかったら全て起こり得なかった事です。夫はじめ、直接指導を受けた学生達は我こそが一番弟子と思っているのではないかと思う位、手厚いご指導を頂いていました。
今年の8月に大阜島に私達家族を招待下さいました。前からお聞かせいただいていたご自慢の薪ストーブ、寝室の奥様との素敵な刺繍の肖像画。奥様との共同の夢の別荘と仰っていらっしゃいました。
夫と違い、自分は鄭炳浩先生と今までにお会いできたのは一月にも満たないと思います。それでも常に愛情と闘志に満ちた生きる姿勢と眼差し、先生の存在のお陰で今の私達家族が居ます。
鄭炳浩先生の安らかな旅立ちと、ご家族様の上に慰めと平安がありますよう、心からお祈りいたします。朱鞠内ででしょうか、またお会いしましょう。
倉田深川 祥子
鄭さんのことは、この強制連行ネットのみならず、北海道フォーラムの皆さんにとっても、衝撃的で、一番ショックを受けておられるのは、過日一乗寺でお目にかかった殿平善彦さんだと思います。
素晴らしい方ほど早く逝ってしまうとはこのことです。私は近時頓にこの確信を持っています。神はあまりにも惨いと言うことです。もっともっと生きて、我々を見守って欲しかったです。
鄭さんとの思い出は、山とあり、涙で目が曇ります。おそらく最初は、1990年代の後半、朱鞠内で徹夜で土饅頭のお墓を作ったときかと思います。2011年の暮れ、慰安婦像が造られたときにも、水曜集会でもお会いしましたね。
合掌。
吉田邦彦(中国・広東外語外貿大学法学院・雲山特別教授) 拝
出発前にもお電話をいただき、その温かいお人柄に触れました。ワークショップでは、お一人お一人の人生が語られ、そこに居合わせた人たちとの対話が行われました。その語りに心から耳を傾けておられたビョンホ先生の姿が忘れらません。宿泊でも同じ部屋で寝泊まりし、いろいろなことをお話しできたのは本当に幸いでした。
9月にも朱鞠内でお会いし、いまご自宅の近くに建設中の研修施設のことをお話ししたところでした。こんなにはやく天に召されるとは思いもよらず、またお会いしましょうと声をかけたのが最後になりました。
先生の大きな大きなお働きを忘れず、平和のために歩んでいきます。
どうか私たちを見守ってください
中川慎二(関西学院大学)
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12月9日午後3時半、ソウルのアサン病院の葬儀場で、チョン・ビョンホさんの葬儀が始まりました。
私たち浄土真宗僧侶4人(殿平善彦さん、尹丁九さん、殿平真さん、吉川)は、チョン・ジンギョンさん(ビョンホさんの奥様)はじめ、ご遺族友人の方々が参列されている中で、日本の仏教式葬儀を執行しました。私は読経中、白い生花に囲まれた微笑みのビョンホさんの写真を見上げていました。弔辞は殿平さん。「ビョンホ、死んだとは思えない。私を見送ってほしかったのに、逆になった。1989年からの大切な親友だった。ビョンホの思いを受け継ぐ」。
◆1989年秋、深川市の喫茶店『ふれっぷ』で殿平さんとビョンホさんが初対面の挨拶を交わしました。以来1か月余、ビョンホさんは一乗寺の庫裏に泊まり続けました。ある日、殿平さんから一本の電話がありました。「素敵な韓国人青年が寺に来ている。お前に会わせたい」。後日、一乗寺で会ったビョンホさんは、穏やかな笑顔の理知的な文化人類学者(当時延世大学講師)でした。ビョンホさんは私と同じく映画「男はつらいよ」が好きだと分かり、瞬時に意気投合し飲み語り合いました。私の教育論にとって、「寅さん」は個人の尊厳、多様性の教材でした。
ビョンホさんは日本文化理解の一つとして、教え子の学生たちに「男はつらいよ」のビデオを観せたとのこと。ちょうどこの頃、韓国で民主化が始まった時期とはいえ、長い軍事政権下の名残で日本文化禁止状態でした。広島に帰った私は、シリーズの中でお気に入りの数本を送りました。ビョンホさんは民主化運動の闘士だったので、見つかって捕まらないかといつも不安でしたが、杞憂に終わりました。
実はこの頃、「まだ朱鞠内の熊笹の土の下に日本・朝鮮人強制労働犠牲者が埋まっている」と語る殿平さんに、「僕が教授になったら、韓国から学生を連れてきてお手伝いをする」とビョンホさんは語ったそうです。その後、殿平さんが企画した「宗教と教育」ニセコセミナーでは、私が薦めた講師の森田俊男先生(後の平和・国際教育研究会会長)と、ビョンホさんの初の出会いが実現しました。殿平さんと2人の間の共感・信頼は、以後の日韓平和教育交流の発火点になりました。
◆1992年3月、殿平さんは韓国の遺族への遺骨返還を実現し、ビョンホさんと出会いもさらに深まっていきました。8月、平和教育研究「森田塾」(代表:森田俊男先生)の「北の大地集会」が朱鞠内で開催されました。この集会には講演者のビョンホさんとジンギョンさん夫妻も参加されました。集会の中でビョンホさんは韓国での民主化運動の抵抗歌「朝露」(アチミスル)を披露。夕闇の森の中で大合唱になりました。
1993年12月、ビョンホさんたちの尽力で日韓から宗教者、学者、教員それぞれ約10名ずつによる日韓平和教育ワークショップが実現しました。ソウルの延世大学や俗離山で学習・交流が繰り広げられ、ジンギョンさんも顔を見せてくださいました。韓国の皆さんとの交流は胸ときめくものでした。軍事政権下、人権の圧殺に抵抗してきた闘士達。平和と民主主義を取り戻し夢と希望に満ちた姿を目の当たりにしました。国境を越えた東アジアの近現代史を意欲的に学ぶ刺激と共に深い感動の輪に包まれました。
ビョンホさんの教え子で日本語達者な安君(大学4年生)と夜遅くまで語り合いました。過去の日本の軍国主義的植民地支配に批判的な彼が言いました。「『寅さん』との出会いで、これまで思い込んでいた画一的なイメージの日本人とは違う、自由で個性的な一面を発見しました」と。就職は日本の会社を希望していると語りました。
過去の日本の戦争責任の歴史を直視しつつ、ビョンホさんたちが語っていた「固有名詞」の出会いの中でこそ、民族の違いをのりこえ、人間の尊厳性を学べることに気付きました。
◆1997年8月、ビョンホさんは約束通り漢陽大学教授になり、殿平さんと共同代表として、朱鞠内での第1回「日韓共同ワークショップ」を開催(2001年からは「東アジア共同ワークショップ」)。韓国人、在日韓国・朝鮮人、アイヌ、日本の若者たちが寝食を共にしながら共同遺骨発掘などのフィールドワークが始まりました。その後、毎年夏と冬、韓国、大阪、台湾、そして北海道各地(朱鞠内・浅茅野など)で今日に至っています。「共同生活体験を通じて、集団的偏見を乗り越え個人としての出会いと理解」(チョン・ビョンホ「希望と連帯を求めて―強制労働者の記憶と帰還」p23、『抗路』2024年12月10日発行)が生まれたのです。
計10回の遺骨発掘と共に遺族探しと相互文化理解をテーマにしたフィールドワーク。延べ2000人を超える若者たちが民族・国境を越えて取り組みました。土中から姿を現した遺骨と出会う中で、若者たちと一緒に私も闇に埋もれていた被害・加害を踏まえた、歴史に立ち会いました。「犠牲になった一人ひとりの個人史を復元し、一つの生命としての尊厳性を取り戻そうとした」(チョン・ビョンホ前著p22)体験といえます。
◆ビョンホさんの大らかで責任感あふれる人柄に吸い寄せられるように、若者たちがWSに集まってきました。そして参加者一人一人が国境・民族を超え、歴史の真実に向き合い学び、個性豊かに育っていく様子をこの20年あまり目にしてきました。
集大成されたのが2015年9月の「韓国への遺骨奉還―70年ぶりの里帰り」。広島別院での追悼法要。参列し朝鮮民族としてのアイデンティティや高暮ダム学習を発表する広島朝鮮学校や日本の高校生・大学生たちを温かく見守り励ました韓国代表のビョンホさん。とりわけ、ビョンホさんから応援されて感動したのは朝鮮学校の生徒たちでした。
ご遺骨とともに私と次男も訪韓しました。韓国の遺骨奉還実行委員の中に韓国の大学生たちがいました。私はインタビューを受け、遺骨奉還活動と関わって高暮ダムに触れました。彼らに依頼され、翌2016年8月、韓国の大学生8名を高暮ダムに引率しました。ビョンホさんたちの自由と平和の精神が広く韓国の学生たちに浸透していると感じました。
◆ビョンホさんは長らく韓国と北朝鮮の子どもたちが似顔絵で交流する運動(朝鮮半島の平和を目指すNGO「オリニオッケドンム」)を立ち上げ、北朝鮮の子どもを守るために飢饉救護活動に尽くしていました。1997年、広島で私たちは、李実根さん(広島県朝鮮人被爆者協議会会長、20年3月死去)を代表に「北朝鮮の子どもやお年寄りへの食糧支援の会」を僧侶・教師仲間と結成しました。北朝鮮の水害・飢餓に対し、「国家・民族・イデオロギーをこえた隣人支援」が念願でした。約2000万円の資金・食糧を携え4度にわたって訪朝団を派遣しました。
私が勤務する中高校ではサークルや生徒会が集めた鉛筆・文房具を、李さんたちがケソン・ウンパなどの学校訪問で直接手渡しました。1998年8月、ソウルで「日韓共同ワークショップ」「平和・国際教育研究会」「南北子どもオッケドンム委員会」「ハンギョレ新聞社」共催の「日韓平和教育シンポジウム」が開催されました。私は分科会「韓半島統一と東アジアの平和」で「北朝鮮の子どもたちに鉛筆を」と題して、生徒たちの取り組みを李さんの思いに触れながら発表しました。「どんな国家体制であれ、人間の尊厳を保障するための人道支援」が願いでした。ビョンホさんが強く発表を勧めてくれただけでなく、私の発表資料まで作って下さいました。
シンポジウム終了後、日韓共同ワークショップが開催され、私は日・韓・在日の学生たち10数名と共に強制連行体験者聞き取りに忠清南道のおじいさんを訪ねました。私たち日本人の存在で、一気に冷たい空気になりました。通訳の韓国の女子大学生が必死に間を取り持ち、日本の侵略を学ぼうとする日本の学生たちの思いをおじいさんに伝え、全員で学び合うことができました。私は高暮ダム追悼での李さんと取り組んでいることを伝えました。彼女たちは今日でもビョンホさんの「平和の踏み石」活動に取り組んでいます。
◆その後、ビョンホさんに誘われ、殿平さんや吉田康彦さん(元国連広報官、24年10月死去)方と共に済州島に向かいました。ちょうど『火山島』作者の金石範氏の講演があり、済州島では村民の多くが殺害されたという1948年の「四三事件」を知りました。ビョンホさんから、まだ実態は闇で語らない遺族も多いと伺いつつ、多くの島民や抵抗した人々がこもったハルラ山(1947m)に点在する洞窟を訪れました。トンネルは狭く息が詰まる中、日本の植民地支配の結果による朝鮮半島分断の悲劇に思いを馳せました。
一転、ビョンホさんから「泳ぎましょう」と誘われたものの、ビョンホさんは海水パンツがなかったので、私の余分の短パンをはきました。私からのプレゼントになりました。海中から顔を出したビョンホさんから「はーい、キッカワさーん」と呼び掛けられ、私も波をかき分け手を振りました。あまりの嬉しさにビョンホさんの携帯を借りて日本へ電話。ちょうど高暮ダム追悼式に参列中の李さんの感動の声でした。初めて2人の間を取り持つことができました。もちろん李さんと殿平さんとも喜びの会話。
2014年秋、ビョンホさんと殿平さんが広島に来てくれました。「東アジアの平和と友好を目指して」(広島宗教者平和協議会主催)のテーマで2人が講演。殿平さんは若者たちによる朝鮮人強制労働犠牲者の遺骨発掘と東アジア共同ワークショップの取り組みを語りました。ビョンホさんは、北朝鮮をめぐる厳しい政治的緊張関係と共に北朝鮮の実態や民衆への温かい思いを述べました。講演後、広島の僧侶や門信徒、キリスト者、教師や市民との楽しい交流会となりました。
おわりに
ビョンホさんからよく電話がかかってきました。「元気ですかー」「ソウルの我が家に来てくださーい」と、いつもの温かい声。日本にいる時、ビョンホさんは欠かさずジンギョンさんに電話をしていました。そんな時、必ず私に電話を替わってくれました。どうしても細かいことはビョンホさんが電話に耳を寄せ「通訳」。聴こえてくるのはジンギョンさんの優しい笑顔が浮かぶ声。
ビョンホさんとジンギョンさんの深い信頼と尊重し合う愛情を感じました。ビョンホさんの人格と活動を最も支え続けたジンギョンさん。2024年2月と9月の2回、ビョンホさんとは殿平さんも一緒に、朱鞠内の宿や一乗寺の庫裏で飲み語り、時には同じ部屋で泊りました。その時も、「ソウルの私たちの『海の家』に泊まりに来てください」と言われました。「来年は必ず泊まりに行きます」と、私ははっきりお返事したのですが…。
*ビョンホさんの葬儀場で、優しく私と握手してくださったジンギョンさん、 気丈にご親族、友人たち弔問者に挨拶されていました。お疲れ出ませんでしたでしょうか。私も殿平さんや多くの仲間の皆さんと共にビョンホさんの願い「東アジアの平和と友好」のための努力してまいります。
2025年1月6日 広島市 吉川徹忍
お別れの会の当日、Zoomで参加させていただいた後、昨年のワークショップで入手したDVD「長き眠り」を観ていました。先生のお姿が、そこここに溢れていました。昨年初めて朱鞠内のワークショップに参加した私は、チョン・ビョンホ先生がいかに大きな存在だったか、殿平先生にとって、そしてここに集うすべての人にとって、どれほど大切な人だったかということをあらためて痛感しました。昨年のワークショップで、朝鮮大学校の若者たちの話を聞いて、私が、「自分が『うちなーぐち(沖縄の言葉)』という自分の言葉と、(1879年に琉球が日本に併合されて以来、名前を日本風にして)名前を失った人間だと痛感した。今日から『あらぐすく』という琉球王国時代の名前を名乗ります」と宣言した時に、私の方を向いて大きく頷きながら、熱烈に拍手してくださったのが先生でした。先生の温かなお優しい笑顔を忘れられません。先生のご遺志を継いで、日本が植民地主義で誰かを犠牲にして生きることをやめ、日本と韓国・朝鮮が対等な友人として出会い直すため、私は日本の中のマイノリティ、沖縄人という立場から、微力を尽くしたいと思います。チョン・ビョンホ先生、ありがとうございました。
新城肇(しんじょう・あらぐすく・はじめ)
いただいた訃報によればビョンホさんはわたくしと同い年で実の入らない当方の人生とは大違いの素晴らしい時間を過ごされたのだと敬意と同時にこちらのそれを恥じ入るばかり。
鄭炳浩(チョン・ビョンホCHUNG Byeong-ho)さんと言えばいつも真っ先に思い出すのは、1995年12月の平和・国際教育研究会京都集会のことです。
ここに韓国から徐勝(ソ・スン)さん、都鐘煥(ト・ジョンファン)さん、鄭炳浩(チョン・ビョンホ)さんのお三方が参加され、ソ・スンさんとは夕食の席が隣同士になり、日本酒を差しつ差されつした時間がありましたのに、韓国の民主化運動を闘ってこられた方と近くに座って緊張と光栄な気持ちでぼうっとしてしまったためか何を話したか記憶を呼び起こせないのが残念です。
ト・ジョンファンさんとは話をするうちに詩を書かれる方だということが判り、その詩を日本語で読みたいとお伝えすると『私も日本語訳してもらうことが可能なら、そんなに嬉しいことはない』と語り、当時わたくしと何度かやり取りがあって、ハングル語学習者として達人レベルに達していた詩人の茨木のり子さんに『都鐘煥さんという方がご自身の詩集の日本語訳の希望をお持ちだが、読んでいただいて、これならぜひ訳したいと思ってくださるなら』とトさんの詩集を3冊添えてお送りした。
しかし折悪しく眼病を患って苦しんでおられたところへのお願いとなり『残念ですけれど、ご放念くださるよう』との返信をいただいた。
京都集会の日程で第3日は午前中にいくつかのグループに分かれてフィールドワーク、そのまま午後(京都駅で?)解散になるという日程。チョン・ビョンホさん達は、出発の時間の直前に朝まで飲み交わして語り合ったのだろうそのままの風情で、韓国からのお三方と殿平さんともうお一人の日本人参加者(吉川さんでしたか)が、組んず解れつの状態で『森田先生にご挨拶したい』と部屋から転げ出て来られたという印象。
『日韓の国境を越えてここまで和解と交流が深まるものなのか』と驚愕したことを思い出します。
我々は見送られ出発し、5人組はなおも交流を深めるか前の晩に使いすぎたエネルギーのチャージをした(爆睡した)かどちらかで宿に残られた。思い返せば私が参加できなかった92年の北海道は朱鞠内集会の時に雨龍ダム建設の強制行で命を落とされた朝鮮半島出身の人達の遺骨発掘、供養、遺骨返還というこれ以上はない和解の行動の途中で、京都の宿のあの朝の光景があったのだと思い当たるのです。
折も折、「新しい戦後」と日本と東アジアがそこに向かうことを止める方法の模索をテーマに開かれた今日、あの12月8日のオンライン研究集会のその当日に訃報が届いたチョン・ビョンホさんのご逝去ですが、日本と朝鮮半島、アジアも世界の激動の渦の中に呑み込まれそうになっている今こそ、ビョンホさんたちとの和解の行動がさらに進むよう願い、平和・国際教育研究会の宗教部会が模索して来られたことを支援し、また引き継ぎたいと思います。
ご冥福と同時にビョンホさんの魂が私たちの心の中にいて、進む道を照らしてくださることを祈ります。
韓国のみなさんと平和・国際教育研究会宗教部会が拓き積み重ねてきた交流を改めて心に刻み、その尊い行動と和解の心を広げたいと思うものです。
どうかわたくしの心も一緒に韓国に連れて行ってください。
2024年12月8日
管 幹雄
平和・国際教育研究会の一会員として
[email protected]
皆様へ ご弔問への御礼
先日はご多忙のところご弔問くださり、誠にありがとうございました。おかげさまで無事に葬儀をすませることができました。改めてみなさまへ心よりお礼申し上げます。
私たちが愛したチョン・ビョンホが天に召されました。
彼の好奇心に満ちた目、明るい笑顔、優しく広いこころ、そしてより良い社会のために行動する力を、皆様もよくご存じだと思います。彼は何よりも人を愛し、生の美しさを賛美し、一瞬一瞬を楽しみ、そして周りの人々の幸せを願い、ともに幸せを分かち合いながら生涯を過ごしてまいりました。また彼は教え子や後輩たちをとても大切に思いました。彼らと共に研究し、活動し、そして遊ぶことを本当に楽しんでいました。このような生き方を心ゆくまで全ういたしました。学生たちのために推薦書を書く際、その一枚一枚に全身全霊を込め、夜を徹して書き上げていた彼の姿が今も思い浮かびます。
数年前から、朝焼けを眺めながらお茶を飲んだり、庭に花を植えたりしている時に、「私たちの人生はとても幸せだった。もう思い残すこともないね。これでいつ逝っても自然死と言えるね。そうだよね!」と笑いあうことがありました。体調が良くないことを知ってから2か月という短い時間でしたが、私たちはお互い伝えておくべき言葉を交わし、心を整理することができました。
多くの方々からお心遣いいただき、ありがとうございます。私にはこのすべてがまだ現実とは思えず、信じられないのが正直な気持ちです。当分の間は、彼が玄関のドアを開けて家に帰ってくるのを待ちながら泣いてしまうこともあるでしょう。しかし、どちらかがいつか経験しなければならない悲しみならば、彼をその悲しみから解放し、代わりに私がそれを引き受けたことを幸運に思います。彼に心配させないよう笑顔を取り戻し、元気に過ごしてまいります。
美しい人、チョン・ビョンホを愛し、彼の旅立ちをあたたかい心で満たし、今も彼を心に留めてくださるすべての方々に心より感謝申し上げます。
2024年12月
チョン・ジンギョン 拝
思い出
いつから親しくお付き合いさせて頂いたのか思い出せませんが、知的で親しみのある方でした。ソウルに行った時も親切に接していただいたことが思い出されます。9月に朱鞠内であった「笹の墓標強制労働博物館」の完成式にご一緒し、数日間一緒に寝泊まりもしました。
ごく最近は私が主たる責任を負っている在日総合誌『抗路』にご寄稿くださったことで色々と連絡を取り合っていました。12号、最終号の特集・在日にとって境界とは、の冒頭の論考で、「希望と連帯を求めて 強制労働者の記憶と帰還」と題するものでした。笹の墓標運動の歴史とそれに関わったご自身の軌跡を綴った記念碑的論考です。文章を少し削っていただけないかとご無理をお願いしたりもしました。そして12月12日に刊行されますとお伝えしたところ、「感謝します。しっかりと読んでみます」とのご返事をいただきました。11月16日のことです。本当に遺稿とも言えるご労作ですが、生前にお届けできなかったことが悔しくてなりません。私にとって鄭炳浩さんは心の支えでもありました。何かあれば相談できる、ソウルに行けば会える、と思う存在でした。
本当に、深く深く、ご冥福をお祈りいたします。いつまでもいつまでも忘れることのできない思い出になるでしょう。
2024.12.8.
尹健次