この追悼サイトは、 円谷 英二(特殊撮映の父・代表作「ゴジラ」)さまのために作成されました。
享年68歳 、誕生日 1901年7月7日、命日 1970年1月25日
※ 円谷さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
円谷 英二(つぶらや えいじ[1]、1901年〈明治34年〉[出典 1]7月7日[注釈 1] - 1970年〈昭和45年〉1月25日[2][4])は、日本の特撮監督[5]、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県[2][1]岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身[5]。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)[注釈 2]。
サイン
一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。[要出典]
1957年の東宝特撮映画『地球防衛軍』などでは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた[11][12]。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる[12]。
この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でその際の円谷に言及しており[要文献特定詳細情報]、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。
1917年(大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した台風による高潮で格納庫もろとも流失。同校は活動停止[19]に陥り、円谷は夢は破れて退学した[出典 6]。
同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影[14]。
1920年(大正9年)、19歳[7]。神田電機学校を卒業[14]。天活が国際活映(国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社[出典 9]。
国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した[15][16]。
1935年(昭和10年)、34歳[7]。2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景のドキュメンタリーである長編記録映画『赤道を越えて』を演出[14][16]。これが監督第1作となった[14][16]。5月10日、次男・皐が誕生[7]。政岡憲三と、人形アニメーションが活用されたファンタジー映画『かぐや姫』を撮影[出典 18]。
1936年(昭和11年)、35歳[7]。ナチス・ドイツの宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用[出典 19]。精巧なミニチュアワークによる天変地異は、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られる監督のアーノルド・ファンクらドイツ側スタッフを唸らせた[12]。
このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンクは「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。
そんな東宝の看板番組となった「ゴジラシリーズ」にしても、円谷が最も気にかけていたのは「マンネリ化」であった。有川や円谷一夫は、「オヤジは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラを描き切っていた」と述べているほどで[要出典]、新味の無くなった『ゴジラ』が飽きられることは、特撮映画全般の制作にも影響が及ぶ。実際、『キングコング対ゴジラ』以降、円谷は新怪獣の造形に力を注ぎ、その描写にゴジラ以上のカットを費やしている。ついにゴジラが宇宙へ飛び出した『怪獣大戦争』で、ゴジラものの企画は限界に来た感があり、実相寺昭雄は本多猪四郎の言として「段々怪獣の数が増えて情けない」との当時の円谷のボヤキを紹介している[要出典]。特殊美術の入江義夫は、円谷が「あまり怪獣ものを続けてやるのはよくない」と言っていたと証言しており、円谷は怪獣ものは好きではないと思っていたという[52]。撮影助手であった森喜弘も、円谷は怪獣ものを『ゴジラ』1本で終えるつもりであったと述べている[21]。
円谷英二ミュージアム 福島県須賀川市中町4-1 須賀川市民交流センター内 5階
TEL:0248-73-4407
※注:このサイトは、円谷英二に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年68歳 、誕生日 1901年7月7日、命日 1970年1月25日
※ 円谷さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
円谷 英二(つぶらや えいじ[1]、1901年〈明治34年〉[出典 1]7月7日[注釈 1] - 1970年〈昭和45年〉1月25日[2][4])は、日本の特撮監督[5]、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県[2][1]岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身[5]。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)[注釈 2]。
サイン
概要[編集]
昭和における特殊撮影技術の第一人者であり[8][1]、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる[9][10]。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史と重なっている。一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。[要出典]
1957年の東宝特撮映画『地球防衛軍』などでは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた[11][12]。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる[12]。
操縦士を夢見て日本飛行学校へ[編集]
1916年(大正5年)11月には家族が大反対する中、操縦士を夢見て玉井清太郎と相羽有が8月に創設したばかりの日本飛行学校に第一期生として入学[出典 5]。費用は当時の金で600円[注釈 4]したが、叔父の一郎が工面してくれた。この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でその際の円谷に言及しており[要文献特定詳細情報]、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。
1917年(大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した台風による高潮で格納庫もろとも流失。同校は活動停止[19]に陥り、円谷は夢は破れて退学した[出典 6]。
進学と考案[編集]
同年、東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部に入学[出典 6]。このころ、学費の足しに、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社で、玩具の嘱託考案係となり[出典 6]、「自動スケート(スケーター[20])」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、様々な玩具を考案した[14]。後の公職追放中も、様々な玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。その中には「自動スピード写真ボックス」[注釈 5]なども含まれる[20]。映画界へ[編集]
撮影用クレーンに乗る円谷英二(1934年)国立映画アーカイブ所蔵 (2/9枚)1919年(大正8年)、18歳[7][16]。電機学校修了後、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始めた[出典 7]。年若い円谷が仲裁に入ったことで、喧嘩相手だった映画会社の天然色活動写真株式会社(天活)の枝正義郎に認められ、同社に入社しキャメラマンを志すようになり、映画界に入った[出典 8]。同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影[14]。
1920年(大正9年)、19歳[7]。神田電機学校を卒業[14]。天活が国際活映(国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社[出典 9]。
国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した[15][16]。
1935年(昭和10年)、34歳[7]。2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景のドキュメンタリーである長編記録映画『赤道を越えて』を演出[14][16]。これが監督第1作となった[14][16]。5月10日、次男・皐が誕生[7]。政岡憲三と、人形アニメーションが活用されたファンタジー映画『かぐや姫』を撮影[出典 18]。
1936年(昭和11年)、35歳[7]。ナチス・ドイツの宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用[出典 19]。精巧なミニチュアワークによる天変地異は、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られる監督のアーノルド・ファンクらドイツ側スタッフを唸らせた[12]。
このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンクは「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。
円谷とゴジラ映画[編集]
円谷とゴジラ別の部署(録音係)から、円谷を慕って円谷特殊技術研究所に加わった有川貞昌は、円谷とともに切り金加工をして「東宝マーク」を作るなどの仕事をしながら、「いつかはこの東宝の撮影所に、特撮専用のスタジオを設立させる」という夢を語り合ったという。そんな肩身の狭い思いを強いられた円谷たち特技スタッフの苦労も、『ゴジラ』によって一気に報われることとなる[51]。『ゴジラ』のおかげで円谷は専用のスタジオを任され、スタッフも正当な報酬を得られる身分になったのである。一方で、何かというと『ゴジラ』の話題ばかり出されることを、円谷は煙たがっていたという。そんな東宝の看板番組となった「ゴジラシリーズ」にしても、円谷が最も気にかけていたのは「マンネリ化」であった。有川や円谷一夫は、「オヤジは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラを描き切っていた」と述べているほどで[要出典]、新味の無くなった『ゴジラ』が飽きられることは、特撮映画全般の制作にも影響が及ぶ。実際、『キングコング対ゴジラ』以降、円谷は新怪獣の造形に力を注ぎ、その描写にゴジラ以上のカットを費やしている。ついにゴジラが宇宙へ飛び出した『怪獣大戦争』で、ゴジラものの企画は限界に来た感があり、実相寺昭雄は本多猪四郎の言として「段々怪獣の数が増えて情けない」との当時の円谷のボヤキを紹介している[要出典]。特殊美術の入江義夫は、円谷が「あまり怪獣ものを続けてやるのはよくない」と言っていたと証言しており、円谷は怪獣ものは好きではないと思っていたという[52]。撮影助手であった森喜弘も、円谷は怪獣ものを『ゴジラ』1本で終えるつもりであったと述べている[21]。
- ゴジラシリーズ
- ゴジラ(1954年)[4]
- ゴジラの逆襲(1955年)[4]
- キングコング対ゴジラ(1962年)
- モスラ対ゴジラ(1964年)
- 三大怪獣 地球最大の決戦(1964年)
- 怪獣大戦争(1965年)
- ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘(1966年)
- 怪獣島の決戦 ゴジラの息子(1967年) - 特技監修
- 怪獣総進撃(1968年) - 特技監修
- ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃(1969年) - 監修(名義のみ)
- 獣人雪男(1955年)
- 空の大怪獣 ラドン(1956年)
- 大怪獣バラン(1958年)
- モスラ(1961年)[注釈 32]
- 宇宙大怪獣ドゴラ(1964年)
- フランケンシュタイン対地底怪獣(1965年)
- フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ(1966年)
- キングコングの逆襲(1967年)[4]
- ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣(1970年) - 監修(名義のみ、ノンクレジット)
円谷英二ミュージアム 福島県須賀川市中町4-1 須賀川市民交流センター内 5階
TEL:0248-73-4407
※注:このサイトは、円谷英二に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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