この追悼サイトは、 森繁 久彌(国民的俳優・声優・歌手)さまのために作成されました。
享年96歳 、誕生日 1913年5月4日、命日 2009年11月10日
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森繁 久彌(森繁 久弥、もりしげ ひさや、1913年〈大正2年〉5月4日 - 2009年〈平成21年〉11月10日[3])は、日本の俳優・声優・歌手・喜劇俳優[4]、元NHKアナウンサー。位階は従三位。最晩年はアクターズセブン所属。身長168cm[5]。血液型はB型。
昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり[6][7]、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌唱・エッセイなど幅広い分野で活躍した。
概要[編集]早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとして満洲国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。
人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中に喜劇性を込めることのできるユニークな存在として、後進の俳優にも大きな影響を与えた[
1939年、NHKのアナウンサー試験に合格。3ヶ月の養成期間終了後、満洲・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した[注釈 1]。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。同じ満洲電電に務めていた赤羽末吉(のちに絵本作家)とも親交を結ぶ[14][注釈 2]。また、満洲各地を回った時のルポルタージュは国定教科書(高等国語二)に採用された[2]。さらに新京放送劇団に所属し、芦田伸介と知り合う。満洲巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生とも親交があった
1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇映画『三等重役』が出世作となり[7]、河村黎吉演じる社長役に対し、要領のよい人事課長役で助演した。また、1953年からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。
1955年、久松静児監督の『警察日記』で田舎の人情警官を演じた後、同年公開の豊田四郎監督の名作『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。大阪の金持ちのドラ息子を好演し、生涯の代表作とした。翌1956年には久松監督『神阪四郎の犯罪』で小悪党を演じ、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』では猫を溺愛するダメ男役で主演、これらの演技で次第に単なるコメディアンから実力派俳優へと転身していった。さらに同年から『社長シリーズ』、1958年から『駅前シリーズ』に主演し、両シリーズとも東宝を支えた大ヒットシリーズとなった。
1960年代以降は豊田監督の『珍品堂主人』『恍惚の人』等に主演、後者ではボケ老人を抜群の演技力でリアルに演じきった[2]。ほか、森崎東監督による『女シリーズ』ではストリッパー斡旋所の人情味ある親父を演じ、森谷司郎監督の『小説吉田学校』では吉田茂をそっくりに演じた。1980年代以降は舛田利雄監督『二百三高地』、森谷監督『海峡』、市川崑監督『四十七人の刺客』などの作品で重要な役どころで出演した。1997年公開のアニメ映画『もののけ姫』では乙事主の声で声優を務めた。
映画出演の一方、舞台では1958年から芸術座の東宝現代劇に第1回公演の『暖簾』から数多くに主演し[2]、1959年に淡島と自由劇団を旗揚げ[19]。1961年5月に明治座で『佐渡島他吉の生涯』を上演し、1962年1月には森繁劇団を結成。東京宝塚劇場で自ら演出した『南の島に雪が降る』で旗揚げした[2]。また、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』ではテヴィエ役を演じ、1967年に帝劇で初演以降、1986年までに900回もの公演を行い、舞台の代表作とした。
晩年[編集]1990年に妻・杏子(本名︰満壽子)、1999年に長男・泉に先立たれる。長男が行っていた事業の清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却し、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。
2000年に胆管結石のために緊急入院[6]。2002年12月31日(火曜日)、静養先の沖縄県で心筋梗塞で倒れ[6]、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画『死に花』で復帰、これが最後の映画出演となった。
受賞・受章歴[編集]栄典・称号[編集]
若いころ(41歳ごろ)
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享年96歳 、誕生日 1913年5月4日、命日 2009年11月10日
※ 森繁さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
森繁 久彌(森繁 久弥、もりしげ ひさや、1913年〈大正2年〉5月4日 - 2009年〈平成21年〉11月10日[3])は、日本の俳優・声優・歌手・喜劇俳優[4]、元NHKアナウンサー。位階は従三位。最晩年はアクターズセブン所属。身長168cm[5]。血液型はB型。
昭和の芸能界を代表する国民的俳優の一人であり[6][7]、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌唱・エッセイなど幅広い分野で活躍した。
概要[編集]早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとして満洲国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組への出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。
人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中に喜劇性を込めることのできるユニークな存在として、後進の俳優にも大きな影響を与えた[
1939年、NHKのアナウンサー試験に合格。3ヶ月の養成期間終了後、満洲・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した[注釈 1]。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。同じ満洲電電に務めていた赤羽末吉(のちに絵本作家)とも親交を結ぶ[14][注釈 2]。また、満洲各地を回った時のルポルタージュは国定教科書(高等国語二)に採用された[2]。さらに新京放送劇団に所属し、芦田伸介と知り合う。満洲巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生とも親交があった
1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇映画『三等重役』が出世作となり[7]、河村黎吉演じる社長役に対し、要領のよい人事課長役で助演した。また、1953年からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。
1955年、久松静児監督の『警察日記』で田舎の人情警官を演じた後、同年公開の豊田四郎監督の名作『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。大阪の金持ちのドラ息子を好演し、生涯の代表作とした。翌1956年には久松監督『神阪四郎の犯罪』で小悪党を演じ、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』では猫を溺愛するダメ男役で主演、これらの演技で次第に単なるコメディアンから実力派俳優へと転身していった。さらに同年から『社長シリーズ』、1958年から『駅前シリーズ』に主演し、両シリーズとも東宝を支えた大ヒットシリーズとなった。
1960年代以降は豊田監督の『珍品堂主人』『恍惚の人』等に主演、後者ではボケ老人を抜群の演技力でリアルに演じきった[2]。ほか、森崎東監督による『女シリーズ』ではストリッパー斡旋所の人情味ある親父を演じ、森谷司郎監督の『小説吉田学校』では吉田茂をそっくりに演じた。1980年代以降は舛田利雄監督『二百三高地』、森谷監督『海峡』、市川崑監督『四十七人の刺客』などの作品で重要な役どころで出演した。1997年公開のアニメ映画『もののけ姫』では乙事主の声で声優を務めた。
映画出演の一方、舞台では1958年から芸術座の東宝現代劇に第1回公演の『暖簾』から数多くに主演し[2]、1959年に淡島と自由劇団を旗揚げ[19]。1961年5月に明治座で『佐渡島他吉の生涯』を上演し、1962年1月には森繁劇団を結成。東京宝塚劇場で自ら演出した『南の島に雪が降る』で旗揚げした[2]。また、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』ではテヴィエ役を演じ、1967年に帝劇で初演以降、1986年までに900回もの公演を行い、舞台の代表作とした。
晩年[編集]1990年に妻・杏子(本名︰満壽子)、1999年に長男・泉に先立たれる。長男が行っていた事業の清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却し、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。
2000年に胆管結石のために緊急入院[6]。2002年12月31日(火曜日)、静養先の沖縄県で心筋梗塞で倒れ[6]、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画『死に花』で復帰、これが最後の映画出演となった。
受賞・受章歴[編集]栄典・称号[編集]
- 1964年:紺綬褒章
- 1975年:紫綬褒章
- 1983年:都民文化栄誉章
- 1984年:文化功労者
- 1984年:大阪府枚方市名誉市民
- 1987年:勲二等瑞宝章[31]
- 1991年:文化勲章(大衆芸能演劇者として史上初)
- 1997年:名誉都民
- 2009年:従三位、国民栄誉賞
- 1955年:ブルーリボン賞主演男優賞 『夫婦善哉』
- 1955年:毎日映画コンクール 男優主演賞 『夫婦善哉』『渡り鳥いつ帰る』『警察日記』『人生とんぼ返り』
- 1964年:NHK放送文化賞
- 1974年:菊池寛賞
- 1976年:ゴールデン・アロー賞特別賞
- 1976年:紀伊國屋演劇賞特別賞 『屋根の上のヴァイオリン弾き』
- 1976年:菊田一夫演劇賞 大賞 『屋根の上のヴァイオリン弾き』
- 1976年:毎日芸術賞
- 1979年:芸術選奨文部大臣賞
- 1979年:芸能功労者表彰
- 1980年:菊田一夫演劇賞 特別賞
- 1982年:日本文芸家協会大賞
- 1984年:山路ふみ子映画賞文化賞
- 1984年:日本アカデミー賞 優秀主演男優賞 『小説吉田学校』
- 1985年:エランドール賞 特別賞
- 1985年:早稲田大学芸術功労者表彰
- 1986年:交通文化賞
- 1987年:放送文化基金賞
- 1991年:日本アカデミー賞 優秀主演男優賞 『流転の海』
- 1992年:「映画の日」特別功労大章
- 1995年:日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞
- 2004年:喜劇人大賞名誉功労賞
- 2009年:第51回日本レコード大賞特別功労賞(没後追贈)
- 2009年:日刊スポーツ映画大賞特別賞(没後追贈)
- 2009年:国民栄誉賞(没後追贈)
- 2009年:毎日映画コンクール 特別賞(没後追贈)
- 2010年:エランドール賞 特別賞
- 2010年:日本アカデミー賞 協会栄誉賞(没後追贈)
若いころ(41歳ごろ)
※注:このサイトは、森繁久彌に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝