(生い立ち)
1909年(明治42年)11月29日、山口県下関市関後地村[4](現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女[注釈 2]の末娘として生まれる。元々は裕福な家庭だったが1912年(明治45年)1月に久米吉が病死したのを皮切り、田中家は数々の不運に見舞われ次第に困窮していく(後述)。家の経済事情の悪化により1916年(大正5年)9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した[4]。直後に患った病気療養により長期間学校に通えなかったが、治癒後保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、1918年(大正7年)4月に天王寺尋常小学校3年に編入される[4]。