外交官。国際連盟脱退の際の首席全権。 山口出身。 家は廻船問屋だったが11歳の時に父親が事業に失敗してしまい破産。 13歳で留学 のため渡米し、人種差別を受けながらも皿洗い、商店など働きつつ20歳でオレゴン大学を卒業した。 米国滞在中に 「対等の立場を欲す るものは、対等の立場で臨まなければならない。 力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる」との対米意識を育む。 24歳 で外交官になり、以後17 年間に中国、ロシア、アメリカになどに勤務。
墓地
- 松岡謙一郎 : 1994年12月23日逝去 (映明院殿紘國慈愛大居士)
- 松岡震三: 2010年12月16日逝去 (茲唱院美空日和清大姉)
お墓の管理情報
- 墓所名義人:
- 墓所の広さ: 境石27cm 竿石52cm(幅64cm 奥行30cm) 園石質花崗岩墓 台座37cm(幅87cm 奥行54cm)芝10cm (幅120cm 奥行84cm)
- 継承管理書類*: 埋葬証明書、改葬許可申請書、墓地使用許可証 *サインインが必要
- キリスト教徒、墓にも十字架が入っている。
- お墓掃除(毎年8月4日くらい)
- メンテナンス履歴:
(直接の連絡は、右ロゴの連絡先へ)
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人物
- 松岡は大変な話し好きであり、朝から晩まで喋っていたという細川護貞の回想がある。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続けていて、仕方なしにまた書類を持って帰ったということもあったという。また、ドイツに行くシベリア鉄道の汽車の中でも、朝起きると話し始め、寝るまで話していたということである。話が途中でも、時間がくれば一時間なら一時間で話し相手となる随員が代わるようにしたが、相手が代わってもかまわずに、同じ話を続けていたという。
- 松岡の満鉄総裁時代に、関東軍参謀副長だった今村均は、満鉄の関係者から「うちの総裁の長談義は、あれは一種の病気です」と聞いて、松岡と会う時は仕事がストップしてしまうことを嘆いている。その今村は、あまりの話の長さに居眠りしてしまい、「今村君!それを君はどう思う」と問いかけられて、やっと目を覚ました。そのとき時計は松岡が話を始めてから2時間を経過していた。
- 姪の佐藤寛子は、幼少時に子供ながらに松岡から天下国家の話を聞かされ、寛子が居眠りしていても松岡は構わず話し続けたという。松岡の饒舌は、アメリカ留学時から愛好していたコカイン中毒による覚醒症状によるものとする説もある。
- 松岡自身は「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っており、例外は山本条太郎と山縣有朋ぐらいであったと述べている[61]。同じような饒舌さで知られるヒトラーの通訳であったパウル=オットー・シュミット(ドイツ語版)は、「ヒトラーに数多くの訪問者があったが、ヒトラーに臆することなく真っ向から対談できたのはソ連外相モロトフと「東洋の使者マツオカ」の2人だけであった」と述べている。また日米交渉で対談したジョセフ・グルー大使は、国務省への報告電報において、対談で語っていたのは「90%松岡、10%が自分」であったと報告している。
- また、松岡は自らの議論に酔ってそれに引きずられる傾向があり、他人の発想を自分のものであると主張することも彼の悪癖であった。ヒトラーとの会談でシンガポール攻撃を勧められると、むしろ攻撃は自分が考えていたことであると言いだし、ドイツ側に不要な言質を与えてしまった。