承継
軌跡

ユダヤ人の恩人「ヒグチ・ルート」

  • 1938年(58歳)、日本は2年前に日独防共協定を結んでいたが、松岡は「私はナチスの) 反共の協定は支持するが反ユダヤ主義には 賛成しない。この2つは全く異なる」と考えていた。 3月、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人 18人が、ソ満国境沿いにあるシベリア 鉄道・オトポール駅まで逃げて来ていた。 彼らは上海にある米国の租界を目指していたが、途中にある満洲国の入国許可が出ず立ち往 生していた。 陸軍少将(当時)・樋口季一郎はユダヤ人難民の窮状を見かねて、食料や衣類を配給し、移動の手配等を行った。松岡は満鉄 総裁として樋口少将に協力し、ユダヤ人難民救援用の満鉄の特別列車を上海まで出して彼らを脱出させた。その後、ユダヤ人たちの間 で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、 最終的に5000 人以上を救ったという。 この件で松岡はナチスの不 興を買ったが気にとめなかった。
  • 1941年12月8日、日米開戦のニュースを聞き「こんなことになってしまって、 三国同盟は僕一生の不覚であった」と無念の思いを漏 らし泣き、その後、結核を発症、 療養生活に入る。 1945年(65歳)、 敗戦後、 東京裁判でA級戦犯として起訴されたが、 終戦翌年、 裁判が続くなか結核悪化により66歳で病死した。
※ヒトラーの通訳パウル=オットー・シュミットいわく「ヒトラーに数多くの訪問者があったが、 ヒトラーに臆することなく真っ向から対談できたのはソ連外相モロトフと「東洋の使者マツオカ」の2人だけであった」

外交官として(戦時中)

  • 1931年 (51歳)、年明けの国会で松岡が、 濱口内閣の幣原(しではら) 外務大臣による協調外交を厳しく批判し、 「満蒙は日本の生命線 である」と主張、 自主外交を唱える。 この「○○の生命線」という言い回しは様々なスローガンで使われるようになった。ただ、松岡の対 中国強硬路線はあくまでも経済の世界のことであり軍事ではなかった。 ところが同年9月、 中国東北部において日本軍が自作自演で満鉄の線路を爆破した“満州事変”が勃発。 松岡は「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。休めるかな」と落胆した。翌年に関東軍が満州国を建国。
  • 1933年 (53歳) 2月24日、国際連盟首席全権として出席したジュネーブの国連特別総会は、満州における日本の権益は容認するが満州国の建国は認めない」「満州を国際社会で共同管理する」と定めた日本軍の満州撤退勧告案 (リットン調査団報告書) 42 対 1 (日本)の圧倒的大差で採択した。 この採択では、日本の権益は認められていたし、 "柳条湖事件 (満州事変) 以前の状態に戻りなさい” という甘めの決議だったが、日本政府は「満州国否認」 決議が採択された場合は連盟を脱退することを決めていたため、松岡はその場 で「決議は遺憾で、日本は連盟を脱退する」と抗議、日本代表団をひきいて退場した。朝日新聞は見出しに「連盟よさらば!我が代表 「堂々退場す」と書き、松岡が横浜に戻ってくると、港には約2千人が駆けつけ、「よくぞ日本の誇りを貫いた」 「英雄、松岡」と歓声をあげ た。だが、松岡自身は帰国途上で「これで日本は孤立してしまう、大変なことになった」と“敗戦将軍” の気持で落ち込んでいたので、「 非常時に私をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」と感じたという。