墓地:青山霊園 東京都港区南青山2丁目32–2 1種1号35側
戒名:蘭渓院献文慈薫居士
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戒名:蘭渓院献文慈薫居士
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- 小山内薫 (おさない かおる)劇作家・演出家。日本の演劇界の革新に半生を捧げた "新劇の父”。大正時代前後に活躍。 広島県出身、 東大英文科を卒業。 森鴎外が編 集する文学雑誌 「万年艸(ぐさ)」に劇評をのせて認められた。 西欧近代演劇の導入を試み、1907年(26歳) に 『新思潮』を創刊して、劇 文壇に新風をふきこんだ。
- 1909年、外遊から帰国した1歳年上の2代目市川左團次と《自由劇場》 を結成し、 イプセン作、森鴎外訳 「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」 を皮切りに、ハウプトマンの「寂しき人々」、 鴎外の 「生田川」などを次々に上演、坪内逍遥の文芸協会とともに新劇界の草創期を築く。 1920年(39歳)、小山内は松竹キネマに入社し主演映画「路上の霊魂」を製作。
- 1924年(42歳)、 映画界に入った小山内であったが、 演劇への情熱はやみがたかった。 彼は商業主義を廃し、 純粋芸術のために小劇 場をオープンするとし、震災で廃墟となった東京築地に洋風木造の「築地小劇場」を創設した。 建築資金はドイツ留学から帰国したばか りの演出家、 土方与志(よし)が出した。 「日本演劇の未来のために歌舞伎や新派では実現できない実験的演劇を上演する」と宣言し、6 月13日に一般公演を開始。定員400の近代的な舞台設備は、実験的な戯曲を上演するのに最適な空間だった。 小山内らは「オープン からしばらくは翻訳劇だけを上演する」と発表、 この方針は日本人の劇作家、菊池寛や岸田国士らの反発を買う。 小山内はゴーリキーや チェーホフの作品など、ヨーロッパの近代戯曲の移植につとめたが、やがて坪内逍遥の「役(えん)の行者」 などの創作劇も上演した。 1928年のクリスマス、 新しい国劇の創造を目指していたが、 脳梗塞により志半ばで急逝し、47年の人生を閉じた。 小山内の死後、 築地小劇場はやむなく解散したが、 戦後に新劇を復興させた多くの俳優を育てるなど、 日本近代演劇の発展に大いに貢献した。
★かつて墓石は多磨霊園 5区1種1側37番にあったが、 2019年、 青山霊園に眠る妹八千代の墓所に改葬された。 妹の夫は洋画家 の岡田三郎助。薫の長男・ 小山内徹が1974年に亡くなり、 徹の妻が2018年に他界し、 娘の美千絵が墓をまとめた。 美千絵の夫は小 説家の立松和平。2010年に立松和平が他界し、「流れる水は先を争わず」と刻む洋墓を建てた。
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