この追悼サイトは、 市川 雷蔵(俳優・歌舞伎役者)さまのために作成されました。
享年37歳 、誕生日 1931年8月29日、命日 1969年7月17日
※ 市川さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
八代目 市川 雷蔵(はちだいめ いちかわ らいぞう、(1931年8月29日 - 1969年7月17日)は、歌舞伎役者および日本の俳優。出生名は亀崎 章雄(かめざき あきお)。後に本名を竹内 嘉男(たけうち よしお)、さらに太田 吉哉(おおた よしや)に改名した。身長は170センチメートル[1]。
映画俳優に転身(1951年7月 - 1957年)[編集]1951年に壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、さして良い役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた[28]。そんな中、雷蔵は1954年に大映所属の映画俳優に転身した。
動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べている[29]が、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し[注釈 5]、梨園と縁を切ることを決意すると、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身した
雷蔵は1954年8月25日公開の『花の白虎隊』で映画俳優としてデビューした。権門の出ではない雷蔵の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、関西歌舞伎の重鎮・市川壽海の子である雷蔵は映画界では貴種として扱われた。大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、デビュー作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮来出島 美男剣法』(1954年12月22日公開)、6作目の『次男坊鴉』(1955年1月29日公開)と立て続けに主役に抜擢した[34]。
雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという[42]。『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった[43]。
1958年(昭和33年)、市川崑は『炎上』(同年8月19日公開。原作は三島由紀夫『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという[44]。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、大映社内にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視したり反対する意見もあった[45]が、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵[46]はこの役を好演した。市川は雷蔵の演技を「百点満点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した[47]。『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している[48]。田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している[49]。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している[50]。なお、大映企画部だった辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった[51]。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した[52]。
1963年(昭和38年)に始まった『眠狂四郎』シリーズは、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。田中徳三によると、雷蔵は当初主人公・眠狂四郎を演じることに苦戦した。雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎殺法帖』(1963年(昭和38年)11月2日公開)について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めている[53]ものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』(1964年(昭和39年)10月17日公開)で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した[54]。『眠狂四郎』シリーズにおける雷蔵の演技について勝新太郎は、「眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。剣で斬らないで顔で斬ってた」と述懐、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している
1968年(昭和43年)6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した[61]。検査の結果、直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった[61][62]。8月10日に手術を受け退院した[62]が、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた[61]。雷蔵は生まれつき胃腸が弱く[63]、1961年(昭和36年)にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診断を受けたことがあった[63]。また、1964年(昭和39年)1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、「下痢に悩まされている」と告白している[64]。
退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代 血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)の撮影を行ったが、体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた[65]。1969年(昭和44年)2月に体調不良を訴え再入院。2度目の手術を受けた雷蔵は、スープも喉を通らなくなるほど衰弱していた[66]が、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。しかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に二代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなったという[67][66]。7月17日、転移性肝がんのため死去[68]。37歳没。葬儀は7月23日に大田区の池上本門寺で行われた。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。墓所もかつては同寺にあったが、現在は久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)に移転している
「破戒」1962年 市川崑監督
※注:このサイトは、市川雷蔵に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年37歳 、誕生日 1931年8月29日、命日 1969年7月17日
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八代目 市川 雷蔵(はちだいめ いちかわ らいぞう、(1931年8月29日 - 1969年7月17日)は、歌舞伎役者および日本の俳優。出生名は亀崎 章雄(かめざき あきお)。後に本名を竹内 嘉男(たけうち よしお)、さらに太田 吉哉(おおた よしや)に改名した。身長は170センチメートル[1]。
映画俳優に転身(1951年7月 - 1957年)[編集]1951年に壽海の養子となった雷蔵だったが、若いうちから大役を与えないという壽海の方針もあって、さして良い役は与えられず、楽屋には大部屋があてがわれるという扱いを受けた[28]。そんな中、雷蔵は1954年に大映所属の映画俳優に転身した。
動機について雷蔵自身は日和見的・試験的に映画に出てみようと思ったと述べている[29]が、田山力哉によると雷蔵は以前から自分に対する処遇に強い不満を感じていたところ、1954年に大阪歌舞伎座で催された六月大歌舞伎『高野聖』において、台詞がひとつもない白痴の役が割り当てられたことに憤激し[注釈 5]、梨園と縁を切ることを決意すると、かねてから雷蔵を時代劇のスターとして売り出そうとしていた大映の誘いに応じ、映画俳優に転身した
雷蔵は1954年8月25日公開の『花の白虎隊』で映画俳優としてデビューした。権門の出ではない雷蔵の出自は歌舞伎界では出世の妨げとなったが、関西歌舞伎の重鎮・市川壽海の子である雷蔵は映画界では貴種として扱われた。大映の経営陣は雷蔵を長谷川一夫に続くスターとして売り出す意向を持っており、デビュー作の『花の白虎隊』の後5作目の『潮来出島 美男剣法』(1954年12月22日公開)、6作目の『次男坊鴉』(1955年1月29日公開)と立て続けに主役に抜擢した[34]。
雷蔵の映画を18本監督した三隅研次によると、雷蔵は自らの肉体的な弱さに対し強い嫌悪感を持っていたが、ある時期を境にそうした肉体的欠陥を受けいれた上で、それを乗り越えようとする姿勢をとるようになったという[42]。『新・平家物語』を境に雷蔵は、年間10本以上の映画に出演し休日返上で撮影を行う多忙な日々を送るようになった[43]。
1958年(昭和33年)、市川崑は『炎上』(同年8月19日公開。原作は三島由紀夫『金閣寺』)の主役に雷蔵を抜擢した。市川によると、はじめは川口浩を起用しようとしたが、大映社長の永田雅一に反対され、そこで直感的に雷蔵を指名したという[44]。この役は吃音症に劣等感を持つ暗い学生僧で、大映社内にはそれまで二枚目の役ばかりを演じてきた雷蔵の起用を疑問視したり反対する意見もあった[45]が、「俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたい」という決意で臨んだ雷蔵[46]はこの役を好演した。市川は雷蔵の演技を「百点満点つけていいと思います。もう何もいうことないですよ」と評した[47]。『炎上』での演技はしばしば、雷蔵自身の生い立ちが反映していると評される。市川崑は「役を通じて何か自分というものを表出しようとしている」「演技を通り越した何か…(中略)…彼がそれまで背負ってきた、人にはいえないような人生の何かしらの表情」があったと評している[48]。田中徳三は雷蔵の複雑な生い立ち、心の地の部分のようなものが出、役と重なり合っていたと評している[49]。池広一夫は、生い立ちにまつわる「人生の隠された部分」、「地の部分」というべきものを演技に出せる雷蔵だからこそできた表現と評している[50]。なお、大映企画部だった辻久一が雷蔵自身の生い立ちが『炎上』での演技に影響しているのではないかと問うたところ、雷蔵はこれを否定しなかった[51]。『炎上』での演技は世間でも高く評価され、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞男優主演賞などを受賞。雷蔵はトップスターとしての地位を確立した[52]。
1963年(昭和38年)に始まった『眠狂四郎』シリーズは、雷蔵の晩年を代表するシリーズとなった。田中徳三によると、雷蔵は当初主人公・眠狂四郎を演じることに苦戦した。雷蔵自身も1作目の『眠狂四郎殺法帖』(1963年(昭和38年)11月2日公開)について、「狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていない」と述べ、失敗作だったことを認めている[53]ものの、4作目の『眠狂四郎女妖剣』(1964年(昭和39年)10月17日公開)で虚無感、ダンディズム、ニヒリズムを表現する役作りに成功した[54]。『眠狂四郎』シリーズにおける雷蔵の演技について勝新太郎は、「眠狂四郎をやる時にかぎり、鼻の下がちょっと長くなるのね。死相を出すというのかな。人間、死ぬ時の顔だね、あれは」「立ち回りなんかも、雷ちゃん、顔で斬ってたね。剣で斬らないで顔で斬ってた」と述懐、「雷ちゃんは、眠狂四郎を殺陣でもセリフでもなく、顔でやっていたんだとおれは思うよ」と評している
1968年(昭和43年)6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した[61]。検査の結果、直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった[61][62]。8月10日に手術を受け退院した[62]が、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた[61]。雷蔵は生まれつき胃腸が弱く[63]、1961年(昭和36年)にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果、「直腸に傷がある」という診断を受けたことがあった[63]。また、1964年(昭和39年)1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、「下痢に悩まされている」と告白している[64]。
退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代 血祭り不動』(1969年(昭和44年)2月12日公開)の撮影を行ったが、体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた[65]。1969年(昭和44年)2月に体調不良を訴え再入院。2度目の手術を受けた雷蔵は、スープも喉を通らなくなるほど衰弱していた[66]が、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。しかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に二代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなったという[67][66]。7月17日、転移性肝がんのため死去[68]。37歳没。葬儀は7月23日に大田区の池上本門寺で行われた。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。墓所もかつては同寺にあったが、現在は久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)に移転している
「破戒」1962年 市川崑監督
※注:このサイトは、市川雷蔵に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝