承継
軌跡

(生い立ち~若くして病に倒れる)

生後6か月のときに三代目市川九團次の養子となり、15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台を踏む。1951年昭和26年)に三代目市川壽海の養子となり八代目市川雷蔵を襲名。1954年昭和29年)に映画俳優に転身。1959年昭和34年)の映画『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍した。ファンから「雷(らい)さま」と親しまれた。1968年昭和43年)6月直腸癌を患っていることがわかり、手術を受けるが肝臓に転移、翌年7月17日に死去した。

(歌舞伎役者となるプロセス)

三代目九團次の養子となってからおよそ2年が過ぎた1934年、雷蔵は京都から大阪へ移った。九團次は幼少期の雷蔵に歌舞伎役者の修行をさせなかった[8]が、1946年、3年生の時に大阪府立天王寺中学校 (現在の大阪府立天王寺高等学校) を退学して歌舞伎役者になる道を選んだ[注釈 1][10][11]
しかし養父の九團次は京都市会議員の子で、歌舞伎役者に憧れて二代目市川左團次に弟子入りした、門弟あがりの役者だった[14]。権門の出ではない九團次は上方歌舞伎における脇役専門の役者に過ぎず、雷蔵はその息子であることに苦しみ続けることになる。

(3代目・市川壽海の養子となる)

その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る[17]1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた[2]。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた[18]。さらに七代目團十郎九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され[19]、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号定紋を許されてもいた
養子縁組を受けて、雷蔵は後半生の本名・太田 吉哉に改名した[23][24]。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった[26]。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという[26]。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している[27]