(3代目・市川壽海の養子となる)
その後武智は、子がなかった三代目市川壽海が雷蔵を養子にしたいという意向を持っていることを知る[17]。1950年12月、三代目市川壽海は「つくし会」に審査員として立ち会い、『修禅寺物語』の源頼家を演じた雷蔵に高評価を与えていた[2]。壽海は仕立職人の息子という歌舞伎とは無縁の出自を抱えながら、苦労の末に戦中から戦後にかけての関西歌舞伎で急成長をとげ、この頃までには関西歌舞伎俳優協会会長の要職を担う重鎮となっていた[18]。さらに七代目團十郎と九代目團十郎が俳名に使っていた「壽海」を名跡として名乗ることを許され[19]、加えて「成田屋」と「壽海老」という、通常ならば市川宗家の者が使用する屋号と定紋を許されてもいた
養子縁組を受けて、雷蔵は後半生の本名・太田 吉哉に改名した[23][24]。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった[26]。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという[26]。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している[27]。
養子縁組を受けて、雷蔵は後半生の本名・太田 吉哉に改名した[23][24]。この名前は姓名判断に凝っていた雷蔵が自ら決めたものだった[26]。ちなみに大映京都撮影所所長だった鈴木晰也によると雷蔵は周囲にも盛んに改名を勧め、大映の関係者の中には雷蔵の勧めで改名した者が20〜30人はいたという[26]。後に結婚する永田雅子も、もとは恭子という名前だったが雷蔵の勧めで雅子に改名している[27]。