この追悼サイトは、 三木 露風(詩人・童謡作家・歌人・随筆家)さまのために作成されました。
享年75歳 、誕生日 1889年6月23日、命日 1964年12月29日
※ 三木さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
三木 露風(みき ろふう、1889年(明治22年)6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。
早熟の天才であり、小中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿していた。1905年(明治38年)に17歳で処女詩集『夏姫』を、1909年(明治42年)には20歳で代表作『廃園』を出版し、北原白秋とともに注目された。
龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)で一年学んだ後、中退して上京。早稲田大学および慶應義塾大学で学んだ。
1918年(大正7年)頃から、鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡の作詞を手掛ける。1921年(大正10年)には童謡集『真珠島』を出版した。本書に収録された童謡「赤とんぼ」は、山田耕筰によって作曲され、現代でも広く知られている。
1916年(大正5年)から1924年(大正13年)まで、北海道上磯町(現・北斗市)のトラピスト修道院で文学講師を務めた。その間の1922年(大正11年)、ここでカトリックの洗礼を受けクリスチャンになる。
キリスト教の信仰に基づく詩集のほか、『日本カトリック教史』や随筆『修道院生活』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与された。
1928年(昭和3年)より、東京都三鷹市牟礼に在住。以来1964年(昭和39年)に死去するまでの36年間、この地に居を構える[2][3]。
当時の三鷹は、桑畑や雑木林が連なる武蔵野の農村で、牟礼田んぼに霞がかかる田園地帯であった。この地の自然を愛した露風は、出身地である龍野町(現・たつの市)にある龍野城が別名「霞城」と呼ばれたことから、牟礼に新築した自宅を「遠霞荘」と名付けていた。
旧居宅は1990年(平成2年)まで現存していたが、現在は庭の松の木だけが残り、三鷹市により「三木露風旧居跡」として案内板が設置されている。所在地は三鷹市牟礼4-17-18[4][5]。
1963年(昭和38年)に紫綬褒章受章。翌1964年(昭和39年)12月21日午前9時15分頃、三鷹市内の下連雀郵便局から出てきたところを、タクシーにはね飛ばされ頭蓋骨骨折で病院に運ばれ意識不明の重体となる[6]。その8日後の12月29日午後3時35分頃に脳内出血により75歳で死去。
旧居宅にもほど近い、大盛寺別院墓地(三鷹市牟礼2-14-16)に墓がある。戒名は穐雲院赤蛉露風居士[7]。死去の翌年、1965年(昭和40年)に勲四等瑞宝章受章。
生家跡(兵庫県たつの市) 聚遠亭内、「ふるさとの」詩碑
「ふるさとの」詩碑除幕式での撮影
後列大塚徹、八木好美
前列吉川則比古、露風、なか夫人
※注:このサイトは、三木露風に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年75歳 、誕生日 1889年6月23日、命日 1964年12月29日
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三木 露風(みき ろふう、1889年(明治22年)6月23日 - 1964年(昭和39年)12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。
近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。
略歴[編集]
1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれた。5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられた。早熟の天才であり、小中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿していた。1905年(明治38年)に17歳で処女詩集『夏姫』を、1909年(明治42年)には20歳で代表作『廃園』を出版し、北原白秋とともに注目された。
龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)で一年学んだ後、中退して上京。早稲田大学および慶應義塾大学で学んだ。
1918年(大正7年)頃から、鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し、童謡の作詞を手掛ける。1921年(大正10年)には童謡集『真珠島』を出版した。本書に収録された童謡「赤とんぼ」は、山田耕筰によって作曲され、現代でも広く知られている。
1916年(大正5年)から1924年(大正13年)まで、北海道上磯町(現・北斗市)のトラピスト修道院で文学講師を務めた。その間の1922年(大正11年)、ここでカトリックの洗礼を受けクリスチャンになる。
キリスト教の信仰に基づく詩集のほか、『日本カトリック教史』や随筆『修道院生活』などを著し、バチカンからキリスト教聖騎士の称号を授与された。
1928年(昭和3年)より、東京都三鷹市牟礼に在住。以来1964年(昭和39年)に死去するまでの36年間、この地に居を構える[2][3]。
当時の三鷹は、桑畑や雑木林が連なる武蔵野の農村で、牟礼田んぼに霞がかかる田園地帯であった。この地の自然を愛した露風は、出身地である龍野町(現・たつの市)にある龍野城が別名「霞城」と呼ばれたことから、牟礼に新築した自宅を「遠霞荘」と名付けていた。
旧居宅は1990年(平成2年)まで現存していたが、現在は庭の松の木だけが残り、三鷹市により「三木露風旧居跡」として案内板が設置されている。所在地は三鷹市牟礼4-17-18[4][5]。
1963年(昭和38年)に紫綬褒章受章。翌1964年(昭和39年)12月21日午前9時15分頃、三鷹市内の下連雀郵便局から出てきたところを、タクシーにはね飛ばされ頭蓋骨骨折で病院に運ばれ意識不明の重体となる[6]。その8日後の12月29日午後3時35分頃に脳内出血により75歳で死去。
旧居宅にもほど近い、大盛寺別院墓地(三鷹市牟礼2-14-16)に墓がある。戒名は穐雲院赤蛉露風居士[7]。死去の翌年、1965年(昭和40年)に勲四等瑞宝章受章。
生家跡(兵庫県たつの市) 聚遠亭内、「ふるさとの」詩碑
「ふるさとの」詩碑除幕式での撮影
後列大塚徹、八木好美
前列吉川則比古、露風、なか夫人
詩集・童謡集[編集]
- 夏姫(1906年7月、血汐会)
- 廃園(1909年9月、光華書房)
- 寂しき曙(1910年11月、博報堂)
- 白き手の猟人(1913年、東雲堂書店)
- 露風集(1913年、東雲堂)
- 良心(1915年、白日社)
- 幻の田園(1915年、東雲堂)
- 蘆間の幻影(1920年、新潮社)
- 生と恋(1920年、アルス)
- 真珠島(1921年、アルス)
- 青き樹かげ(1922年、新潮社)
- 信仰の曙(1922年、新潮社)
- 小鳥の友(1926年、新潮社)
- 神と人(1926年、新潮社)
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