承継
この追悼サイトは、 水上 勉(小説家)さまのために作成されました。

享年85歳 、誕生日 1919年3月8日、命日 2004年9月8日
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水上 勉(みずかみ つとむ[1]1919年3月8日 - 2004年9月8日)は、日本小説家日本芸術院会員、文化功労者福井県生まれ。社会派推理小説飢餓海峡』、少年時代の禅寺での修行体験を元にした『雁の寺』、伝記小説『一休』などで知られる。禅寺を出奔して様々な職業を経ながら[2]宇野浩二に師事[3]、社会派推理小説で好評を博して[4]、次第に純文学的色彩を深め[5]自伝的小説や女性の宿命的な悲しさを描いた作品で多くの読者を獲得[6]。その後は歴史小説や劇作にも取り組む一方、伝記物に秀作を残した[7]。作品の映像化も多い[8]

戦後9月に学校を退職して東京へ出て、神田で妻の叔父が経営する工場に間借りする。1946年に虹書房を興し、学芸社の同僚だった山岸一夫とともに雑誌『新文藝』を創刊、石川啄木樋口一葉などの作を刊行し、水上若狭男の筆名で短編小説を掲載した。和田芳恵が『日本小説』を創刊する際に、誌名のアイデアを出したのも水上だった。この頃、信州松本に疎開中の宇野浩二に執筆依頼に行き、宇野がかつて「水上潔」の変名を使っていたことで知遇を得、宇野が東京本郷に移ってからも腱鞘炎を患っていた宇野の口述筆記を長く行なうようになって、文学の師と仰ぐようになり、『苦の世界』なども刊行する。また宇野に巖谷大四を紹介されて、生活のためにあかね書房や小峯書店で童話や少年少女もの、童話の創作や、「家なき子」「きつねの裁判」などの翻訳ダイジェスト、偉人伝などを執筆した。『新文藝』は資力や印刷事情のために3号で休刊。1947年に虹書房は解散し、一時文潮社の嘱託として出版企画に参加、ここで田中英光と親しくなった。

北海道の『大道』という雑誌に書いた自身の日常そのままを短編にした「雁の日」で宇野に褒められて発奮、ついで1948年に文潮社から長編の身辺小説『フライパンの歌』を刊行し、宇野浩二の序文や「昭和の貧乏物語」という文句の広告もあって良い売れ行きを示した。これに大映が映画化を申し込み、5万円の手付金をもらったが、予定していた監督の島耕二新東宝に移籍したため企画は中止された。さらに妻が家を出て行くなどで銷沈して、その後の原稿依頼もなく[14]、また体調も思わしくなく、3歳の幼児を抱えて生活に追われ、文筆活動からは遠ざかることになる。山岸一夫の紹介で日本繊維経済研究所の月刊誌『繊維』の編集の仕事に就き、次に山岸と週刊の「東京服飾新聞」を発行するが、これも不況で立ち行かず、洋服生地の行商を始める。またこの頃山岸の紹介で西方叡子と再婚し、このため小石川の富坂にある俳優の加藤嘉宅の2階に間借りし、その後松戸、それからまた小石川の初音町に移る[13]。叡子が川上宗薫の義妹と高校・短大の同級生だった縁で知己となり、川上の参加していた同人誌「半世界」にも顔を出すようになり、また菊村到も紹介され、小説執筆を促された。

1958年に服の行商の電車の中で松本清張点と線』を貪り読み[15]、これに刺激されて、『繊維』時代の経験から日本共産党の「トラック部隊」を題材にした推理小説を書き、川上宗薫の紹介で河出書房の編集者坂本一亀の手に渡り、4回の書き直しを経て、霧と影の題で1959年に宇野浩二の序文と、菊村到、吉行淳之介の推薦文の帯を付けて出版、初版3万部が1ヶ月で売り切れ、一躍流行作家となった。当時生活を支えるために妻がキャバレーホステスとして働いており、坂本がその店へ原稿料を届けに行った際、「奥さん、長いこと、ご苦労さんでした。水上さんは、これで、作家になられました」と言ったという[16]

1960年(昭和35年)、「水俣奇病」として原因が未解明のままだった水俣病を題材にした『海の牙』を発表し、『霧と影』に続いて直木賞候補、翌1961年に第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞、社会派推理作家として認められた。しかし水上自身は推理小説に空虚感を感じており、『うつぼの筐舟』の頃からは「人間を描きたい」という気持ちから、社会派的というよりは純文学的な推理小説を書くようになり、自分がよく知る禅寺の人間たちを題材にしつつ推理小説の体裁を取り入れた『雁の寺』を執筆[17]吉田健一の激賞により注目され、同年に第45回直木賞を受賞。当時は「三十七の職業を持った男」とも喧伝された。この続編『雁の村』『雁の森』『雁の死』や、『越前竹人形』『五番町夕霧楼』『櫻守』などを続々と発表、洞爺丸事故を題材にした社会派推理の大作『飢餓海峡』(1963年)も大きな話題を呼んだ。

主に北陸や京都などを舞台にとった、貧しい庶民の生活を題材にした暗い叙情的な作品は「水上節」とも称された[18]。一時は月産1200枚をこなす人気となり、松本清張笹沢左保梶山季之と並ぶ推理界の量産作家四天王とも呼ばれた[19]。また直木賞受賞後に、文藝春秋社の講演旅行で親しくなった柴田錬三郎に薦められてゴルフを始め、柴田の催す球々会にも参加、また軽井沢の貸別荘で夏を過ごすようになり、そこで丹羽文雄にゴルフの手ほどきを受けるなど、文壇での交友を広げた。小林秀雄とも講演旅行がきっかけで懇意となり、湯河原で一緒に正月を過ごすことが20年ほど続き、小林は瀬戸内晴美に向かって、作家としての「才能の山」を持っている作家として水上を挙げていた[20]

水上勉の有名な作品は
しかし水上自身は推理小説に空虚感を感じており、「人間を描きたい」という気持ちから自分がよく知る禅寺の人間たちを題材に『雁の寺』を執筆、同年に第45回直木賞を受賞。 代表作に『飢餓海峡』、『越前竹人形』、『五番町夕霧楼』、『はなれ瞽女おりん』、『金閣炎上』など、映画化された作品も多い。
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     若州一滴文庫  福井県大飯郡おおい町岡田33-2-1 0770-77-2445
  水上勉の蔵書2万冊を収めた図書室、書画展示室を含む木造2階建ての本館
     竹人形文楽が上演されるくるま椅子劇場等が有ります。

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※注:このサイトは、水上勉に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年9月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
様々な職業を遍歴し、3歳の幼児を抱えて生活に追われながらも小説家への情熱を燃やした水上勉。 それだからか登場人物への温かいまなざしが伝わってきます。 薄幸の女性を描いた小説が多いのも、自身の関わってきた人生と重なるところが多いのでしょう。 「五番町夕霧楼」の夕子に惹かれます。  合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2023年9月6日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
様々な職業を遍歴し、3歳の幼児を抱えて生活に追われながらも小説家への情熱を燃やした水上勉。 それだからか登場人物への温かいまなざしが伝わってきます。 薄幸の女性を描いた小説が多いのも、自身の関わってきた人生と重なるところが多いのでしょう。 「五番町夕霧楼」の夕子に惹かれます。  合掌
軌跡

(生い立ち)

福井県大飯郡本郷村(現おおい町)の、佐分利川沿いの集落で棺桶造りや宮大工をしていた家に生まれ[9][10][要ページ番号]、5人兄弟の次男として育った。生家は乞食谷(こじきだん)と呼ばれる谷の上にあり、そこは死体を埋める谷のとば口で、一家は地元の素封家の所有する薪小屋に住んでいた[11][要ページ番号]。8歳の時には北丹後大震災に逢い、家から茶畑に避難する経験をした。当時京都臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院の住職になった山盛松庵が、若狭で酒井家賞を受けた子供から小僧をとろうとして選ばれ、貧困もあって、9歳の時に京都の伯父の元に送られ、10歳の時に正式に瑞春院に入った[11]。(この時、寺に住み込んで画の練習をしている南画家の服部二柳を見ている)得度して水上集英に改名、室町小学校を卒業し、柴野中学に通う[12]

(作家への足どり)

しかし修行生活の厳しさに13歳の時に出奔。その後、連れ戻されて等持院に移り、僧名承弁に改名。1933年旧制花園中学校(現・花園中学校・高等学校)3年に編入、等持院の蔵書の小説本を無断で貪り読み文学への関心を持った。等持院住職の二階堂竺源は衣笠貞之助と親しく、等持院には東亜キネマの撮影所があって、撮影の手伝いもさせられ、これらの経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた。また等持院に立ち寄る宮嶋蓬州や錦織大宗にも接した。中学4年の時に『都新聞』に投稿するようになり、卒業後は寺を出て伯父の下駄屋で働き、むぎわら膏薬の西村才天堂の行商を経て、1937年昭和12年)、立命館大学文学部国文学科に入学、同年に府庁で満蒙開拓義勇軍への勧誘を行う仕事に就いた後、満州にある国際運輸社の社員となって奉天に渡るが、翌年結核を患い、帰国療養として若狭に戻る。文学書を読み漁り、水上努の名で『月刊文章』『作品倶楽部』に投稿、『月刊文章』で選外佳作となって初めて文章が活字になった。